工藤邸は西洋風の邸宅だ。それはもう今更確認する必要も無いほどに。
だから、それがある事の方が不思議なのだが。
黒の組織を壊滅させて1年。
解毒剤の完成で【江戸川コナン】から【工藤新一】に戻って半年。
あの薬の副作用は新一が思っていたよりも複雑且つ根深いもので、新一は今、健康体とはお世辞にも言えない生活をしている。
偏頭痛に動悸・貧血等なんでもござれといった感じで、下手をすれば日に数度も発作が起こった。いつ止まってもおかしくない生体機能。加えてそれまでの精神的ストレスが一気に噴出したか、鬱病のような状態にもなってしまった。
通常の医者にかかることが推奨されない癖に一時の予断もない身として、高校への復帰を諦めなければならなかったのも、ストレス助長に一役かっているだろう。
そんな中、隣家の主治医たる少女にはそういった症状が見られないのは甚だ疑問ではあったが。
「当然かもね。元々不完全な薬だったし、個体差を考慮すれば在り得る事よ。何より、男性より女性の方が様々な耐性が強いのは普通ですもの」
彼女はいつも通りの淡々とした口調で言った。
新一は徐々に親しい人たちと会わなくなった。
家にやってくる人は沢山いた。幼馴染、クラスメイト、チビたち、西の親友……でも新一が会うと決めたのは主治医と博士だけだった。疲弊し自棄になっていた彼には、彼女のざっくりとした真実の言葉が心地よかったのだ。
辺り障りのない思いやりからなる慰めに精神を犯され、嬲られるような気がして、優しく暖かい人たちは全て退けて。
自分を知り支えてくれた博士と彼女だけを、認めようとしていた。
つい先週までは、だが。
■■■
夏になり、昼夜が逆転した生活を送るようになった。
初夏とは言え日射は強く、その熱はただでさえ乏しくなった体力を奪い去ってゆく。
最初はクーラーを効かせて部屋で惰眠を貪っていたのだが、長期間外気に触れないのは身体に悪影響しかもたらさないと言う主治医から、せめて夜だけでもとの指示が下ったからだ。
下らないと考えていた新一は、しかし夜の意外な優しさにとても落ちついた。
昼と打って変わって優しい冷たさを孕んだ風や、静かにある星や、穏やかな温もりをもった大地に。
熱帯夜と呼ばれる夜も、昼の熱から考えれば新一には丁度いい。
服用を義務付けられた様々な薬のせいでなく、自分自身の心が安らぐのを感じる。
「静寂だけが夜だと思ってた」
「そう」
「月が気持ち良いな」
「そうね」
「硝子が軋んでるみたいな気分だ」
「……そう」
夜寝る前に絶対新一の様子を見に来る主治医に呟きながら、庭の木陰に置かれた木製の大きなブランコに腰掛ける。
それはまだ幼い頃に母が父にせがんで購入したものだったが、もう10年は経つという割りに酷く頑丈で。
夜は常にそこで過ごすことにしていた。
ティーテーブルを傍に置き、MDラジカセで小さく音を流しながら紅茶を飲んだり、月明かりで本を読んだり。
主治医や博士と共に深夜のティーパーティなども時々開いたりして。
その日は綺麗な満月だった。
風も気持ち良く、少し機嫌が良くなった新一はブランコに寝そべり片足だけ下ろして軽く揺らしていた。
テーブルに置いたグラスの中で氷が溶けた音がする。
「………静かだな」
声を出して、幽かに引っかかり始めた呼吸に気付いた。もう慣れてしまった発作の前兆だ。最近は余り発作を起こしていなかったからちょっと油断していた。夜に発作が起こるのは久しぶりだったので少し慌ててしまう。
ブランコの背凭れにかけてあったブランケットで身体を覆い、グラスに手を伸ばす。
紅茶で少し喉を潤し、もう一度クッションに頭をのせて深呼吸し目を閉じる。
数度の呼吸のあと、不意に耳の奥で『どくん』と音がした。
途端に締め上げられる心臓と呼吸。
「……っ………」
ほとばしった痛みの波に、歯を食いしばり、耐える。
波の中で細い呼吸をなんとか繰り返し、身体に満ちる苦痛を逃がし。
どこか冷めた思考が頭の隅で自分を見下ろしているのが解った。
(ああ、俺も慣れてきてるよな。前より痛みが引くのが早い)
手はまだシャツの襟を掴んだままで、身体をぐっと縮めて、悪夢にうなされる子供のような姿で。
(小さなもんだな。まああと数分……5分もかからないだろうし、宮野を呼ぶまでもないか)
発作を起こしたら鳴らせと渡されていた携帯はテーブルの上にあるが、今ごろ少女は眠っているだろうし。彼女を起こせば博士も起こすわけで。
対して重大でもない発作で、それは申し訳なさ過ぎるし。
考えながら徐々に引いてきた波に、ゆっくり身体の力を抜いて。
(これなら大丈夫……)
「大丈夫ですか?」
不意に頭上から降って来たテノールに、休み始めたばかりの心臓がどぎゅっと縮みあがった。
「ふ…っ!」
激痛が一瞬思考を消して、不意打ちのそれに涙が零れ額に汗が滲む。
声をかけた相手はその反応に思う所があったらしく、優しく新一の腕や背中をさすり始めた。
「済みません、驚かせてしまいましたね」
声の位置からしゃがみこんだのが分かる。
ゆっくりゆっくり背をさする手に心臓を宥められながら、痛みを逃す呼吸をくりかえして自分自身を落ちつけて。
何とか身体の力を抜けるほどには落ちついて、一体誰なのかと目を開いて見れば、涙でぼやけた視界に広がるのは、白。
「大丈夫ですか、名探偵?」
「……怪盗KID」
「はい」
視線を合わせるように膝をついているのは、白い怪盗。
子供の名を持つ、不敵な男。
何故ここに。
どうも表情そのまま問いかけが出ていたらしく、シルクハットの影の中苦笑したようだった。
「囚われた茨姫を塔よりお助けしたところ、物憂く身を横たえるサファイアの君に目を奪われたらしく、どうしてもその瞳に映りたいとせがまれましたので……その願いを叶えるべく、姫をお連れしたのです」
立ち上がって大袈裟に礼などしながら、すっと差し出されたのは掌を丸々隠すほどの針水晶。豪奢なチョーカーに仕立てられたそれが月を映してきらりと輝いた。
銀の中で中央に向けてその切っ先をそろえる内包物に、成る程「茨姫」とはよく言った、と納得して。
「……まだやってたのか」
何が、とは言うまでもない。
怪盗は姫を懐に抱きなおし、笑みのまま頷いた。
黒の組織は新一とKIDにとって共通の敵で、壊滅させる時には手を組んだ。
彼自身が連中を敵とする理由は聞かなかった。
謎だらけの相手に新一の好奇心が疼かない訳がなかったが、解き明かす謎はKID自身への深入りに繋がりもするから。
相手に深入りすれば執着も起こってくる。執着するほどになれば、それは協力者ではなく弱点、ひいては足手まといになってしまう。
敵を倒す。
その目的の為に、新一は弱点や守るべき物を増やせなかった。
知れば恐らく、自分は彼を離さなくなるだろうから。
それほどまでに気に入ってしまった、ライバルだったのだ。
だからこそ、彼が呟いた言葉はその時は酷い驚きでもあったのだが。
『全てが終わったら、KIDも廃業ですね』
そうか、彼は終わる事が出来るのだな
何となくそう思ったのを覚えている。
「廃業じゃなかったのか?」
「一度はそう思ったのですが、そうしますと中森警部や白馬探偵がつまらないだろうと思いまして」
「嘘付け」
「はい」
悪びれずに嘯くKIDに溜息を返し、起き上がる。
ティーテーブルのグラスを取って中身を飲み干し、全身の力を抜いてKIDを見上げると、珍しく穏やかな視線にさらされた。
冷たい気配が美しかった怪盗のこの穏やかさ……居心地が悪い。
苛立ちも露わにブランケットを被りなおして横たわる新一に、KIDは静かに声をかけた。
「復活なさってもお噂を聞きませんので、心配していたのですよ」
「あっそ」
「相当のようですね」
「そ。だからさっさと帰ってくれ」
新一は段々機嫌が悪くなる自分を自覚し始めていた。
酷くうざったい。
苛々とブランコを揺らしながら、新一は立ち尽くす怪盗をにらみ上げた。
「ジュエルここに置いてくなよ。預けるなら隣に預けて帰れ。今度寄ったら問答無用で警察呼ぶからそのつもりでいろよ」
あとは気にかける必要もないという態度で目を閉じた新一に、KIDはしばし沈黙を保った後、一礼して去っていった。
■■■
翌日も空は綺麗に晴れて、新一は月の元で本を読んでいた。
隣人が気を利かせて買ってきてくれていたらしい、起きたら以前から好きだった作家の新刊がリビングに数冊置かれていた。
小さなメモに礼を残して庭に出る。
肩からブランケットを掛けて座り、軽くブランコを揺らしながら頁を繰りながら。
さく、と芝を踏む音が耳に届いたのは半分ほど読み進めた頃だったか。
目の端に泳いだ白にゆっくりと顔をあげると、気障な怪盗がゆっくりと礼をするところだった。
「ご機嫌麗しゅう、名探偵」
「………」
そのまま近づいてくる怪盗を見つめたまま、新一は無言で携帯電話を手にとった。
1・1・0とプッシュしそうになるその手をそっと止めて、怪盗が苦笑する。
「酷いですね、折角参りましたのに」
「警察呼ぶって言ったろうが。離せよ」
「本気ですか?」
「本気以外の何がある」
折角一人で機嫌が良かったというのに、お前のせいでだいなしだ。
睨む新一を呆れて見つめながら、怪盗は仕方ないと言いたげに肩を竦めて離れた。
何気ない仕草でその手から携帯電話を抜き取ることは忘れない。
「全く…容赦がないというか我侭というか……」
「うるせぇよ、とっとと消えろ」
「もう私を捕まえようとは思われないのですか?」
「思わねぇよ」
「何故?」
不満を露わにした声に珍しい、とは思わなかった。それに気づかないほどに新一は疲弊していたし、気分も悪かった。
「うるせぇな! お前なんざどうでもいいんだよ、俺は!!」
叫ぶと、驚いたように見つめ返され。
「……どうでもいい?」
「ああそうだよ!! お前がKIDを続けようと捕まろうとどうでもいい!! だからお前も俺に近づくな!!」
もう視線も向けたくないと言いたげに寝そべった新一のそばで、怪盗が立ち尽くす。
嫌な沈黙がその場に広がったが、気にせず本を読み直そうと開いたとき、不意に隣―怪盗の立つ場所で小さな爆発が起こった。
それが彼の得意とするものだと記憶からまさぐって、ふいと視線を向けると。
そこに白い姿はなく、代わりに全身黒ずくめな不機嫌顔の青年が立っていて。
細い黄色のサングラスの向こうから睨む顔は自分と酷似しているが、唯一変わらぬ気配からそれがKIDだとは分かる。だがその意図が掴めない。
「……何だよ」
「決めました。これからしばらく、名探偵に付き合わせてもらう事にします」
「はぁ!?」
思わず叫んだ新一を無視して、怪盗はティーテーブルにどっかりと腰を下ろした。
「お前何聞いてたんだよ!」
「文句なら聞きましたね」
「なら何でそういう結果に陥る!?」
「私も自分勝手ということですよ」
貴方には負けますがね。
勘に障る口調で言い放った怪盗に、新一は乱暴にブランコから立ち上がった。
睨む新一に、
「先に喧嘩を売ったのは貴方だとだけ、言わせてもらいますから」
とだけ告げ、怪盗は不遜な態度で足を組んだ。
以来、奇妙な共同生活が続くことになった。