私の命の儚さを






 起きてまずすることは、自分自身の確認。
 記憶の確認、身体のどこかに不具が起きていないか、力はきちんと入るか。
 時間を掛けて着替えながら手足の具合を見て、大きく深呼吸をして。
 カーテンを開けば、闇に沈んだ街が見える。
 そして窓に映る影。

「おはようございます、名探偵。具合は如何です?」

 音もなく扉を開けてそこに立つ怪盗に、俺は片眉を上げた。

「いつもどおりさ」

 これが俺の日常の始まりだった。



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 黒の組織を壊滅させて1年。
 解毒剤の完成で【江戸川コナン】から【工藤新一】に戻って半年。
 それから更にしばらくして、俺はなぜか怪盗KIDと奇妙な共同生活を送るようになった。

 あの薬の副作用から俺は今、お世辞にも健康とは言えない生活をしている。
 偏頭痛に動悸・貧血等なんでもござれといった感じで、いつ止まってもおかしくない生体機能。加えてそれまでの精神的ストレスが一気に噴出したか、一時期鬱病のような状態にもなってしまった。
 通常の医者にかかることが推奨されない癖に一時の予断もない身として、高校への復帰を諦めなければならなかったのも、ストレス助長に一役かっているだろう。
 隣家の主治医たる少女にはそういった症状が見られないが、元々不完全な薬だった事や性別の違いによるホルモンバランスの違いなど、理由をあげればきりがない。いつも通りの淡々とした口調でそう言われて、そんなもんだよな、とため息をついたときもあった。

 そんな状態で人に会える訳もなく、俺はそれまで親しかった人たちとの物理的な交流をさっくり捨てた。
 幾らなんでも今の自分を見せたいとは思わなかったし。こんな状態で探偵もできる訳がないと、依頼は全て白馬や服部に回してもらって。
 最低限必要な相手として求めたのは、元に戻った宮野と阿笠博士だけだった。阿笠博士は誰よりも近い理解者だったし、宮野の態度は俺にとっては一番楽な距離を持っていたから。

 その内元に戻ってから初めての夏になり、俺は昼夜が逆転した生活を送るようになった。
 初夏とは言え日射は強く、その熱はただでさえ乏しくなった体力を奪われるのはうんざりで。
 最初はクーラーを効かせて部屋で惰眠を貪っていたのだが、長期間外気に触れないのは身体に悪影響しかもたらさないと言う主治医から、せめて夜だけでもとの指示が下ったからだ。

 そうして生活を続けていたある満月の夜に、あの気障な怪盗に再会して。
 全てに投げやりになっていた俺を見て、怪盗はぬけぬけと言った。

「決めました。これからしばらく、名探偵に付き合わせてもらう事にします」

 以来、奴は俺の家に住み着くようになってしまった。



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 ラフなシャツとチノパン姿(流石にKIDの装束はやめてくれと頼んだ。あの姿で家の中を歩き回られたのでは落ち着くものも落ち着かない)に眼鏡という、一見「どこにでもいる青年」に化けた(顔は素顔だとか言っていたが信じられるものか)怪盗が、脱いだパジャマを手にとりながら階下に促す。

「ご飯出来てますよ」
「あっそ」
「洗面所にきちんとタオル用意してありますから、顔洗ってきてください」
「分かってるよ」
「宮野女史に頼まれていた本、夕方いらした時にお渡ししておきました」
「サンキュ」

 ……今の会話を聞いて、こいつが怪盗KIDだと信じる奴がいるだろうか?

 まず驚いたのは、この怪盗の甲斐甲斐しさ。
 俺とは違い、『仕事』以外ではまともな生活を送っているのだと言った割りに、俺が起きる夜になると必ず家にいる。そして食事から洗濯掃除まで、きちんと俺の世話やら話し相手やらをして、朝俺が寝た事を宮野に報告してから自分の家に帰ってゆくのだ。一体いつ寝てるんだと聞けば、「企業秘密ですv」とウインクで返された。

 何というか、嬉々として俺の世話をしている姿を中森警部あたりに見せたら、きっと滂沱の涙を流して退職届を提出するんじゃないかと心配してしまった。

 食事は美味い。たった二日で俺の好みを把握して、三ツ星レストラン顔負けの美味さで好物を並べられたときには柄にもなくはしゃいだ(てか、何で俺の好物まで知ってるんだ)。
 掃除も完璧、洗濯もぱりっと糊まで掛けてあって。
 話も雑学から専門知識まで、豊富で切れもあり時々おどけたり。

 一週間もたつ頃には、俺はすっかりこの怪盗に気を許していた。


 細い銀縁眼鏡で一応顔を隠した怪盗が傍の椅子で雑誌を読む様を見つめながら、俺はブランコに寝そべっていた。
 片足だけ下ろして軽く揺らす。
 酷く穏やかで静かで、安らぐ時間。
 こんな時間を共有しだして、もう一月がたとうとしている。以前なら絶対に拒否していただろうに、今ではこの生活が何よりも大事に感じる事を、俺は知ってしまっていて。
 風に梢が揺れる音に目を閉じると、怪盗が立ち上がる気配がした。
 そっと身体の上にブランケットが掛けられる。

「眠っても構いませんよ、部屋まで運びますから」
「バーロォ」

 耳を打つテノール。俺の声に似た――しかし微妙に違う響きを持つ奴の声が、俺は好きだった。
 目を開けると、怪盗がブランコのすぐ傍まで椅子を引きずってくるのが見えた。そのまますとんと腰を下ろすと、やんわりとした力で奴がブランコを揺らす。

「…あんま強くすんなよ」
「分かっています」

 くすくすと笑いながら、静かに静かに。
 優しい風が起こるくらいの速度で。
 そっと空を見上げると、怪盗もつられて見上げるのが見えた。

 星と、月の明かりが静かに闇の中に広がっていて、時折感じる風と。

「………何でこんなに平和なんだろう…」

 呟きは夜の静けさには大きく聞こえる。
 でも怪盗は返事をせず、ただブランコを揺らし続ける。

「――元に戻れば、また同じ生活があると思ってた。また学校に行って、探偵やって…そうやって同じ時間が戻ると――」

 そっと、唇に指が触れた。
 怪盗は静かにかぶりを振って、俺の唇を指で撫でる。

「静かに…今は月を愛でる時間ですよ」
「………」
「…何かを語るのは、もう少し元気になってからにしましょう……。今はまだ…こうして揺られて、ゆっくりと時間を過ごせばいい…」

 貴方の心が、平穏に疑問を抱かないようになるまで。
 吐息でそう告げると、怪盗は俺の髪を梳いて、穏やかな笑みを見せた。

 ……こいつのこんな笑みを見ると胸が詰まる。

 何故こいつは、こんなに俺に優しいんだろう?
 ライバルがいないのはつまらない、と奴は言い訳した。だがそれだけで説明が済むほど尋常ではないと思う、このまめまめしさは。
 時折かかってくる両親の電話に似ていて、気楽なくせに、全身を満たす優しい思いやりを感じるのだ。

 何故…?
 お前、何をしたいんだ?

 聞くのは簡単なはずだった。
 なのに舌は動かなくて、俺は怪盗を見つめたまま、いつしか眠りについていた。