数日後、珍しく昼過ぎに目を覚ました。
それからしてケチがついていたような気がするのは、卑屈な考えだろうか?
強い日差しがカーテン越しに俺を暖めていて、じっとりと汗をかいている。
久しぶりに感じるその不快さに起き上がると、階下で物音がした。
(……宮野か?)
今日は平日。
平日のこの時間にこの家に誰かいるとすれば、宮野か博士しかいない。音の位置からしてリビングにいるのだろう。
とりあえず汗をかいたパジャマを着替え、階下に下りる。
ランドリーにパジャマを放り込んで、ふと耳を澄まし……何故かぱったりと途絶えた音に俺は首をかしげた。
「宮野ー? どうかしたのか?」
声を掛けても返事はなく、俺はふと沸きあがった疑念に内心で舌打ちをした。
もしも泥棒の類だったとして、今の俺に立ち向かう力はない。以前なら問答無用で飛び込んでいただろうが、と内心苦笑しながら、何も気づいていないように平静を装った声だけをもう一度向けて。
「お前に貸してた本、返すのいつでもいいからさ。傷だけはつけるなよー?」
やはり返事はない。
「俺また寝るからさ、悪いけど戸締りだけしっかりしてってくれよな」
わざと足音を立てて階段に移動し、なるべくゆっくり上る。自室に入ってすばやく携帯電話を手にとると、俺はベッドに腰掛けながら隣家につながる短縮ボタンを押した。
3コールくらいで、すぐに聞きなれた声が聞こえてくる。
『はい、阿笠です』
「…宮野か?」
『工藤君? 珍しいわね、こんな時間に起きてるなんて』
やはり宮野じゃない。
階下では再び音がしだした。
「宮野、博士は?」
『今日は子供たちと出かけているわ。…どうしたの?』
潜めた声に気づいたのか、宮野の声に鋭さが混じる。
「下に誰かがいる。とりあえず気づいてないふりして部屋に戻ったけど」
『警察を呼ぶわ。5分したらまた電話して』
「分かった」
素早く切って階下の気配に集中する。リビングから移動しようとしている。
出て行くならそれでもいい。印鑑や通帳、保険証などの重要なものは博士に預かってもらっている。盗まれるものがあっても小金程度だ。
半ば安心した俺の耳に、不意に階段が軋む音が聞こえた。
―――上ってくる?!
部屋の鍵を掛け忘れたことを、俺は後悔した。いや、逆にその方がいいかもしれない。下手な行動で煽るのはまずい。
こういう事態を考えたことがない訳ではなかったが、まさか本当に起こるとも思わなかった。
携帯を置くとドアのすぐ横の壁にはりつき、じっと待つ。
連絡を受けて警官が来るまでには早くても10分程かかるだろう。
はたしてその間、相手を押さえつけて置けるかが不安だった。
こんな時にまざまざと実感する、弱くなった身体に対する嫌悪。
こんなことならコナンだった時の方がまだ強かった気がするぜ、畜生…!!
かちりと音を立ててドアノブが回った。
ゆっくりと、ドアが開く。
間髪をおかずにドアを開けると、俺は外に立つ相手に向かって思い切り蹴りを放った!
俺の足は脇腹を掠めたらしく、そいつが向かいの壁にぶつかった。
素早く体勢を整えると、俺はそいつを睨みつける。
「誰だてめぇ!!」
見れば帽子を被っただけの男。
片手に袋を持って壁に張り付いた姿は間抜けでもあったが、その体格は俺よりもでかい。
こいつとやりあうのは今の俺には無理だ。警官が来るまで逃げていた方がいい。
瞬間で決断した俺は即座に階段を駆け下り、外へ行こうと玄関に――――
どくん。
耳の奥、鳩尾あたりに響いた、鼓動。
もう随分と感じ慣れた――しかし今起こって欲しくなかった、それ。
カッと熱が迸った様に感じた。
続いて身体に広がる痛み。
「く……ぁっ!!」
目の前が真っ赤になり、壁に激突する。いや、廊下に倒れたんだと気づいて、しかし俺は痛みに身体をちぢこめることしか出来なかった。
胸が熱い。痛い。
心臓が不規則に慄いて、呼吸が出来ない。酷い頭痛と耳鳴りがする。嫌な汗が全身に噴出すのを感じた。
くそったれ、こんな時に!!
発作にもがく俺の隣に、誰かが立った。
「―――――がって!!」
何か聞こえ、縮めた背中を思い切り突き上げられた。
「ぐぁっ!!」
「―――――、―――!」
悪態をついているらしいその男は、もう一度忌々しげに俺を蹴りつけると、乱暴に引き起こす。
立ち上がれない俺をそのままずるずると引きずり何処かに放り出した。
フロアマットの上。リビングだろうか?
びくびくと震える心臓に四苦八苦しながら、何とか身体を起こそうとすると、今度は腹を蹴られた。
吐き気と痛みが声すら殺して、俺は再びフロアマットの上に沈んだ。
階上で携帯が鳴っているのが微かに聞こえる。
宮野だろうか。
男が舌打ちしながら俺の腕を掴み、背中で縛りあげはじめた。抵抗をしようにも未だに発作は収まらない為、俺はされるがままだ。
畜生……こんな身体じゃなかったら………!!
「―、―な―校生探――なったら――だ―?」
ごろりと身体を仰向けに返され、俺は苦しい中男を睨み上げた。
痛みに滲んだ涙でぼやけてはいたが、憎たらしいほど余裕の笑みを見せているのが分かる。
「へっ、そん―面して――ってるみたいだぜ?」
口角を歪め、男は俺の首に手をかけた。
殺すつもりか!?
息を呑んだ俺に、男がもう一度にやりと笑い、じわじわと力を込めようとした――――その背後に。
「手を離せ」
低い、殺気を孕んだ声。
男が振り返った事で俺にも様子が見えるようになった。
リビングの入り口に誰か立っている。
常なら凛としながらも何処か掴み所のない気配が、刃を含んだようなぞっとする冷たさに変わっている。
黒いTシャツにジーンズ、腕に買い物袋を下げた、本当に「どこにでもいる青年」だ――姿だけみるなら、だが。
とさ、と袋が落ちた。
慌てて立ち上がりはしたものの、男はその気配に縛られたように二、三歩よろけて立ち尽くす。
ゆっくりと歩み寄ってくる怪盗に、俺は何故か涙が零れそうになるほどの安堵を覚えた。
気が抜けた瞬間悲鳴をあげた心臓に俺も声をあげる。
身を捩ってうめいた俺のすぐ隣に膝をつくと、怪盗は鮮やかな手つきで縛られた腕を解いてその腕の中に俺を抱いて。
穏やかな気配に包まれながら、詰まった息に身を震わせる俺の背を、優しく優しく撫でて。
「少しだけ、待っていて。すぐに終わるからね?」
抱き上げられて、ソファに横たえられるのを感じ、俺はそのまま意識を失った。