今日は大人しく休んだほうがいいという主治医の命令だったのだが、どうも興奮しているらしく、薬に頼るのもいやで、俺はリビングのソファに居座っていた。
時計の針は深夜0時を指している。
「めーたんてー、紅茶飲む?」
「……ん」
マリアージュ・フレールのダージリン♪
ミルクもたっぷり、砂糖もたっぷりのミルクティー仕立てだよ〜♪などと嬉しそうに言ったクロバを見上げ、俺は紅茶を受け取ろうと手を伸ばし――――危うく落としそうになった。
「おわっ!!」
「わあ、あぶねっ!!」
テーブルに少し零れたが、何とか支えることが出来て、ふたりしてほっと息をつく。
俺の手から優しくカップをとるとテーブルに置き、クロバは俺の隣に腰掛けた。だがそれに視線を向けることはできなかった。
――手が、震えていた。
「……は、は……今更になって…」
「めーたんてー…」
「もっととんでもない目に遭った事だってあるんだぜ? あんなの、平気だったのに」
そうだよ。
銃を向けられた事だってあった。犯人に殴りかかられたり、包丁向けられた事だってあった。
コナンの時だって、何度死にかけたか分からないくらいだ。
なのに。
なのに何で今、この手は、この身体は震えてるんだ!!
「…くそっ―――!!」
舌打ちしてテーブルに打ちつけようとした俺の手を、クロバがしっかりと握り締めた。
唖然としてみる俺に構わず、そっと拳を解いて指を絡めて。
「…平気じゃないだろ?」
「………」
「平気じゃないだろう? 死にそうになったんだよ、震えて当然だよ」
震えをなだめるように手の甲をさすって、じっと俺の目を見つめる。
クロバの瞳に俺が映っていた。
泣きそうな、子供のような顔をした、俺が。
瞬きに一瞬隠され、再び俺が映る。
でもその目は――クロバではなくて。
「――人の命の儚さは、貴方が一番良く知っているはずです。天命、人的作為、様々な要素を与えられて命は永らえ、時に一瞬で散る。それを本能で知っているからこそ、人は他人の命を己が手に握り自在に扱おうとする――そうでしょう? 身勝手なその思いゆえに、貴方が得意としていた悲劇が起こることを、貴方は知っている。だからこそ貴方は立ち向かおうとなさっていた。自分の力で何とか出来るかもしれないからと、その身を粉にして必死に…違いますか?」
ゆっくりと心にしみこんでくる言葉に、視界が揺れた。
瞬きを繰り返すと、頬に何かが伝う。
静かに抱き寄せられて、俺は怪盗の肩に額を乗せた。
鮮やかに宝石を奪い奇術を繰り出す指が俺の髪を梳いて、その余りの優しさに、俺は身体の奥から震えが広がるのを感じた。恐怖に囚われた『工藤新一』がやんわりと暖められていく。
「今の貴方がそれを恐れ震えているのは、自分が弱っているのを知っているからですよ……自分ひとりの力では、欲望に塗れた人の強力に立ち向かえないと、気づいているからこそ、貴方は死を恐れている」
「………こわ、かったんだ」
「…はい」
「あんなことがあって、それでも、身体はこんなでも助かったのに――何でもないこんなことで…っ!!」
折角助かったのに。
折角生き延びることが出来たのに。
強盗一人の手の加減で、俺はそれら全ての経験ごと、記憶も何もかもを生命と共に失おうとしていた。
それがこんなに恐ろしいことだなんて、思っても見なくて。
不意に強く抱き寄せられ、俺はびくりと身体を強張らせた。
そんな仕草は今までされなかった。
驚きの余り涙すら止まった俺の耳に、苦しげな怪盗の声が聞こえる。
「――工藤が死ななくて、良かった…」
こんな声は聞いたことがない。
「姫から聞いて、慌てて掴んだ家の扉が開いたときぞっとした。どんな目に遭ってるのかって、そればかりが頭を巡って、震えが止まらなかった!! リビングであいつがお前を組み敷いてるの見て、怒りで凍え死ぬかと思った。お前がいなかったら、俺はあの男を殺してたよ」
血を吐くような、切ない声。
―――何故。
いつも抱いていた思いが浮かぶ。
何故、こんなに…?
「……何で、お前………?」
「―――」
「何で、そんなに……俺に優しい? 何故俺を守ろうとしてるんだ?」
確信。
こいつ、俺を守ろうとしてる。
何故?
一瞬緩やかに抜けた力が、また強く俺を縛り付けた。
「………貴方が――」
首筋に押し付けられた唇が、何かを言った。
それは俺と怪盗の身体に響いたけれど、聴覚に触れることは無くて。
結局俺は、怪盗の言葉を聞くことが出来なかった。
□□□
ゆっくりと浮上した意識に瞼を上げ、俺は思わず笑みをこぼした。
随分と懐かしい夢を見たものだ。
強盗に襲われたのはもう2年も前の話。
もうすっかり忘れていたのだが、何で急に思い出したんだろう??
身体を起こそうとして、縛り付けられたように動かないことに気づく。
見れば背後から、快斗の腕がしっかりと俺の身体に巻きついて、離してくれそうにない。
この腕が思い出させたのか?
やさぐれてた俺と、支えてくれた怪盗の優しさを。
カーテンの隙間から見えるのは傾いた月。
時計を見れば、早朝3時。起きるには早すぎる時間だ。
向き合うように身体を反転させると、暢気に眠る快斗がうにゃうにゃと何か呟きながら、またしっかりと俺を抱きなおして。
鼻を抓んでも起きそうにない馬鹿面に軽くキスをすると、俺はもう一度惰眠を貪るべく、快斗の胸に頬を寄せた。
次に目を覚ました時には、隣には誰もいなかった。
まあすぐに顔を合わせる事になるんだけど。
起きてまずすることは、自分自身の確認。
記憶の確認、身体のどこかに不具が起きていないか、力はきちんと入るか。
時間を掛けて着替えながら手足の具合を見て、大きく深呼吸をして。
カーテンを開けば、朝日に照らされた町並み。
そして。
「おはよ、新一! 今日もいい天気だよー!」
騒々しく部屋に飛び込んでくる大事な恋人に、俺は満面の笑みで答える。
「そんなにいい天気なら、散歩にでも行くか?」
これが今の俺の日常の始まり。