私の命の儚さを 〜花降夜






 牙砥ぎ冴える月の元 咲くは黄金の脆き花
 奏でよ 実りと滅びの季(トキ)を
 妙なる香を広く渡らせ

 垂れ込め滴る冷雨の器と 捧げし指を絡めるは
 滅びならずと笑み接吻た 妙なる白の輝夜(カグヤ)の子



***



 俺が家に閉じこもってから一年が経とうとしていた。
 秋も深まり、夜に外にいるのは寒いほどになった。
 しかしその冷たさが心地良くて、宮野に叱られようが、足繁く通う怪盗に呆れられようが、俺は夜を庭で過ごしていた。
 季節が感じられるという事実が、嬉しかったのかもしれない。庭に咲く花や木の変化は俺の目に鮮やかに映ったから。
 でも矢張り俺自身に変化はなくて、結局は満たされる事は少ないのだが。

 そんなある夜。
 今となっては、アレがそうなのかと思う、一夜。




「名探偵、散歩に行きませんか?」

 いつもの如く庭のブランコで寛いでいた俺の元に、厚手の上着と暖かい紅茶を運んできながら、怪盗が柔らかい笑みで言った。
 珍しく俺に付き合っていた宮野が、怪盗に渡された紅茶を飲みながら、ふむ、と頷く。

「気分転換にはいいかもしれないわね、行って来なさい」
「姫は来られないのですか?」
「あら、二人で行きたいんじゃないの?」

 俺をそっちのけで話している二人を見ながら、俺はブランコを揺らして起き上がった。
 こんな時、俺の選択権は無いのと同意だということは、ここ一年の付き合いでよく理解している。

「今日はやめておくわ。ここは片付けて置いてあげるから、早速連れ出してくれる?」
「はい。…ああ名探偵、きちんと着てください」

 おざなりに上着を羽織った俺に近付くと、しなやかな指が前を留めて行く。幼稚園児じゃねえんだぞ。

「いいじゃねーかよ、歩いてる内に暑くなるし」
「駄目ですよ」
「駄目よ」

 ……こんな時お前等、無茶苦茶通じ合ってるよな。


 十分後、俺は怪盗に付き添われて玄関に立っていた。
 俺には厚着させる癖に、奴の格好はラフなものだ。ちょっと不満げに見詰めると呆れた笑みが返された。
 考えてる事が筒抜けみたいな気分になり、苦い顔で話を反らす。

「んで、何処行くんだよ」
「ちょっと時間がかかるんですが、良い所があるんです」
「あんまり遅くなると宮野に……」
「分かって居ますよ。ですから、アレで行くんです」

 門のところに銀色の何かが有る事に、俺はやっと気付いた。
 自転車、だ。
 スポーティなタイプのシティサイクルが何時の間にか鎮座している。昨日は無かったような…。

「……二人乗りすんのか?」
「したことありませんか?」
「いや、あるけど…」

 荷台が無い代わりに後ろの車輪にはスタンドがついていて、そこに立てるようになっている。
 でもこれって危険だからって禁止されなかったか?

「さ、行きましょうか」

 エスコートするみたいに手を差し出され、俺は渋々手を重ねた。









 空には銀色の月。
 冷たい風が見上げる俺の頬をすり抜けて行く。
 リズミカルにペダルを漕ぐ怪盗の肩に手を置いて背中を伸ばし、俺は流れて行く景色に機嫌良く笑った。

「自転車なんてすっげー久しぶりだ」
「こうして乗るとなかなか良い物ですよね。ハングライダーよりも扱い簡単ですし」
「そりゃ当たり前だろー?」

 自転車よりハングライダーが簡単だなんて奴いたらすげーよ。
 俺の言葉に怪盗も笑う。仕事してた時みたいじゃなく、ただのオトコノコみたいな楽しそうな声で。



 不思議だな…。
 こいつとこんな風に過ごすなんて、コナンだった頃は考えもつかなかった。
 ましてや新一に戻った後、こんな状況になるなんて思いもしてなかった。

 身体の不調、多発する発作。健康なままだとは思わなかったけど、ここまでとも思わなかった衰弱。
 果たせない日常生活、絶望的な高校生活。引き留められ、後ろ髪惹かれながら退学した学校。
 順調に進んできた人生の、これが初めての挫折だったかもしれない。
 コナンになった時も随分と絶望したけど、それでもあの時、俺は俺でいられたから。

 今も俺は俺だけど、『高校生探偵・工藤新一』に課せられた期待を、果たせない。

 ……考えて見れば嫌な事実だ。
 俺の存在価値は『探偵』という一点にしかないんだと、俺自身に知らしめた事実。
 『探偵』じゃない俺を、『俺』が認められない……蘭やおっちゃんや目暮警部達、博士、宮野そしてこの怪盗が、例えここにいる『病弱な青年』を『工藤新一』だと言っても。
 その思いだけは止められない。この思いまで無くせば…きっと俺は俺ですらなくなるから。

 俺が俺でなくなったら、皆も……こいつも…。



「名探偵?」
「へっ、あ、え?」

 思考に沈んでいて、怪盗の言葉を聞いていなかった。
 慌てて肩を掴み直すと、小さな溜息が流れてきた。

「あんまり静かなので何処かに落としたかと思いましたよ」
「落ちたら分かるだろーがよ」
「いいえ? 名探偵は事件となるとすぐに何処かへいってしまいますから。糸が切れた凧というのは本当に…」
「んだと、コラ」

 そんな奴は旋毛押してヤル。
 怪盗の悲鳴が夜に響いた。



 ふと風に混ざった香に、俺は目を瞬いた。

「ああ、もう随分と咲いたようですね」
「これって……金木犀か」
「ええ。以前仕事帰りに見つけたんです」

 小さな公園なんですが、凄いですよ。
 何だか嬉しそうな声に首を傾げる俺の視界に、金色に彩られた緑の林が見え出した。

「わ……」

 徐々にスピードを下げる自転車が、公園の門柱の前で止まる。
 バランスを崩す前に降りて、でも俺はそこから目を離せないまま立ちすくんでいた。

「……凄いでしょう?」
「うん」

 それ以外何も言えない。
 目の前に有る公園は、確かに大きくは無かった。本当に小さな児童公園だ。
 でも。

 その敷地内、遊具と少しのスペースを除いて、所狭しと植えられた植物。
 通常ならば、時期の花が分けられて植えられている筈の公園は、どんな所でも大概あるだろう桜は一本もない。
 代わりに植えられているのは夏の終わりから正月、春前にかけて咲くような花。
 金に彩られた金木犀があると思えば、遅咲きだったのか夾竹桃が未だ鮮やかな花を開いている。

「あっちは木槿(ムクゲ)、梅擬(ウメモドキ)、葉鶏頭、彼岸花……あそこにあるのは、まだ咲いていませんが侘助(ワビスケ)ですね…」
「寒椿じゃなくて?」
「そのようです。あとは寒木瓜(カンボケ)に…あれは梅ですか、冬牡丹もありますね」
「よくまあ……こんなに集めたもんだなあ」
「本当に」

 公園の中に歩を進めながら、立木や植物を眺めて歩く。
 10分もかからず一周出来る公園だけど時間をかけて巡り、見て回って改めてここを剪定しただろう職人の心に感動した。

「色が無くなる時期でも、きっとここは鮮やかでしょうね」
「うん……マジで綺麗だろうなあ」
「恐らく定期的に剪定にも来ているのでしょう。形もきちんと整っているし…でも無下に枝を切り落とすような事もしていない。本当に樹木に愛着を抱いている証拠です」

 咲き誇る花達を見詰めて、怪盗が本当に幸せそうに笑う。
 金木犀の下に立ってその枝を見上げながら、俺はその香を肺一杯に吸い込んだ。

「…こんな庭師なら、うちの庭も頼もうかな」
「おや、とうとうあのジャングルをどうにかする気になったんですね」
「何がジャングルだ!!」

 確かにうちの庭は荒れてるけどさ。俺は結構気に入ってるんだぞ。
 むっとふくれた俺に笑い、怪盗も金木犀の下に立った。

 そのまま二人、暫く無言で金木犀を見上げていた。



 ふっと何かが動いたと思ったら、見上げる俺の額に何かがぶつかった。

「んぁ?」
「どうか…ああ、金木犀ですよ」

 怪盗が手を伸ばして、俺の額に乗った何かを摘み上げた。返された掌の上に、小さな金色の花がぽつんと落ちている。

「ほら、名探偵。足元」
「え、あ!」

 花ばっかり見ていて気付かなかった。
 地面に沢山金木犀が落ちていて、そこだけ絨毯を敷いたようになっているのだ。

「すげー…」

 全部散った時なんかもっと凄いんだろうなって、今でも思えるくらい、月明かりを反射して本当に地面が輝いて見える。
 宮野も来れば良かったのに、なんて考えてたら、怪盗がにこりと笑った。

「今度来る時は姫と博士もお誘いしましょうね」
「…」
「…どうかしましたか?」

 怪盗の顔が見られなくて、俺は視線をそらした。
 思う所があったのかそれ以上は何も言わず、じっと俺を見つめているらしい視線を感じる。

「…お前、さ」
「はい」
「俺の事甘やかさなくていいから」
「は?」

 何を言っているのかと首を傾げる怪盗に顔を向けられないまま、俺は落ちた花を踏み潰すように地面を蹴った。
 小さな花が弾けたように転がって行く。

「ほら、もう一年経つしさ? 俺も餓鬼じゃねぇんだから、いい加減腰入れて考えなくちゃいけないし」
「…名探偵?」
「お前だって、推奨されない仕事にせよ、マジでやってる訳だろ? 俺なんかに構ってたら身体大変だろ、今も本当はしんどいの我慢して付き合ってくれてるんじゃねえの?」
「名探偵」
「普通の生活してるって事は、そっちとの付き合いもあるだろうし、こう毎晩こっち来てたんじゃ親御さんも心配してるんじゃねぇ? そういうのって申し訳無いし。やっぱ養育されてるうちは親の言う事は聞いておいた方が言いと思うしさ」

 俺の言いたい事分かるようになる前に、やらなくちゃ行けない事って多いと思う。
 多分こいつは今受験生だろう、俺と似たような年代な訳だから。だったら隠居してるような奴に付き合って、そのご機嫌取りにこんなとこに連れてくるなんて事、してる暇なんて無いはずだ。
 不安だった分嬉しかったけど、でもだからって立ち上がるまで甘え続けるなんて、間違ってると思うから。

 だから。

「だから…………」
「……甘やかしている訳ないでしょう」
「へ?」

 何処か馬鹿にするような響きの声に、俺は間抜けに振り返った。
 見れば可笑しそうに笑う怪盗一人。

「私は貴方に恩を売っているんですよ? ピンチになった時、姫も名探偵もとても頼れそうな方々ですから」
「…………」

 にっこりと胡散臭い笑みで怪盗は微笑んだ。
 そのまま唖然とする俺の手を取ると、すたすたと公園の出口へと歩を進めて行く。

「そろそろ帰りましょう。いい時間ですし、姫も心配しているでしょうからね」
「おっ、おい!!」

 人が真面目に言ってるってのに、聞けよ!!
 引っ張られながら文句を言おうとした俺の目の前に、いきなり振り返った怪盗の手が差し出され、小さな破裂音と共に現れたのは黄色の花。
 勢いを削がれて目を丸くした俺に、怪盗はおどけを無くした静かな瞳を向けた。

「金雀枝です。花言葉は謙虚、謙遜……ですが、卑下、とも言われるのですよ」

 今の貴方ですね。

 ぱさりと枝を放りながら、きっぱりと言われた言葉が何故か酷く胸を打った。

「焦る気持ちが分かるとは言いません。貴方が自分の力不足を嘆き、自分を傷つけてでも立ちあがろうとしている事を、いけない事と言う権利もない。でも、」

 銀縁眼鏡の向こうで輝いた紫紺の瞳が、強く俺を貫いた気がした。

「思い出してください。貴方が自分を貶めるのは貴方を大事に思う人達をも貶める事だと。皆貴方を『探偵』であると思っています、それは本当に正しい事だと私も思います。貴方は『探偵・工藤新一』以外に成り得ない」
「キッド、」
「ですが、同時に皆知っています。他人を傷つけぬ為に、自身を傷つけながら進む覚悟を持ち、実行する『人間』だと言う事を知っているんです。完璧では無い事を……知っているんですよ」

 いきなりの事で頭が混乱して、怪盗が何を言いたいのかが分からない。
 でも…言葉は酷く優しく心に染みた。

「……俺…」
「コナンが貴方で在ったように、今の貴方もまた同じです。受け入れてあげてください」


 そして、


「そして、貴方を思う私達の心も、受け入れてください…」


 再び小さな音と共に現れた花は白のアスター。


「貴方を思う私達を、もっと信じてください……私達が求めているのは『探偵・工藤新一の看板』じゃない」


 そっと花弁に口付け、それを俺に差し出して。


「『探偵・工藤新一という一人の人間』です」


 花弁が、俺の唇に触れた。

 風が吹いて、金木犀が俺達の所まではらはらと流れてきた。









 何も話さないままに、俺達は家路を急いでいた。
 とは言っても自転車漕いでるのは怪盗なんだけどな。
 俺はバランスを保ったまま、怪盗の肩に手を乗せて景色を見ていた。


 公園で話して、分かった事。
 俺は…こいつの前では隠し事が出来なくなってるらしい。
 俺の考えてる事なんて全部こいつには筒抜けで、情けないけどこいつの言葉は涙が出そうな程安心する。
 このまま頼り続けるなんて出来ないって分かってるのに、ずっと居て欲しいと思うようになってる。
 それがいけない事だってのも分かってるのに。


 でも。


「……寒くないですか?」
「…大丈夫」






 こいつの傍にいたい。
 もっと傍にいて欲しい。
 もっと俺を安心させて欲しい。
 もっと、







 俺を甘やかして。







「………名探偵?」

 肩に置いた手を怪盗の首に回す。
 背中に胸と腹を押しつけて、後ろから頭を抱きこむみたいに寄りかかって、癖のある猫ッ毛に頬を寄せた。

「どうか、しましたか?」
「………んでもねーよ」

 嘘だ。
 こんなに軋んでるのに。

「…止まりますよ」

 緩やかに自転車が止まった。
 でも俺は怪盗の頭を抱きしめたまま動かなかった。
 今こいつの顔みたら、きっと何も考えずに叫んで詰って、脆く千切れ飛びそうだった。

 そんな俺の手をぽんぽんとあやす様に叩いて、怪盗が身じろぐ。
 それでも俺は動けなくて。
 浅ましく弱い考えが嫌で、そんな自分を見られたくなくて。
 何より、この腕を離したくなくて。





「……新一」





 俺は身体を起こした。

 名前を、呼ばれた。

 例え話で名を呼ばれる事はあっても、怪盗がこんな風に俺を呼ぶ事は無かった。
 俺の胸に頭を押しつけるように仰け反って、上を向いた怪盗が俺をじっと見詰める。
 それはあの時に―――震える俺を宥めてくれたあの時にくれた優しさを持っていて。

 手が、頬に触れて、耳を撫でて、髪を梳いて。



 引き寄せられるまま、俺達は唇を触れさせていた。



 数秒触れ合っていた唇が離れても、俺達は無言で見詰め合って。
 やがて何も無かったように自転車が進み出して、俺はまた怪盗に縋った。
 幽かに体に染み付いた金木犀の香が薄れないように。
 ほんの少しでも、俺とこいつを縛り付けてくれるように。









 葉が色を深めるように、俺の中でも何かが色を変え始めた夜だった。