小さな名探偵やその仲間と共に組織を壊滅させて1年。
見つけたパンドラを砕き、欠片を海に捨てて、もう半年。
あれほどやめようと思っていた怪盗を、快斗は続けていた。
互いの事(正確には名探偵が快斗の事を、だが)を全く知らないままに別れたのを、快斗はずっと不満に思っていた。子供の姿をとって尚、自分以上に真白く輝く探偵が、自分に興味を示していたのを知っていた。全てが終わった後は当然自分に絡んでくるものと思っていたのに。
しかし探偵は、組織の壊滅からきっぱりと事件に関わる事をやめ、姿を元に戻してからは高校すらきっぱりと辞めて隠遁生活に入ってしまった。親しいもの全てから離れ、隣家の科学者二人以外を捨て去って、だ。
クラスメイトの探偵に化けて家を尋ねても出てくる気配はなく、仕方なく彼の主治医を訪ねて見れば。
「出たくても出られないのよ。今の彼は以前とは違うの。今は静かにしておいて上げて」
彼女はいつも通りの淡々とした口調で言った。瞳の奥に名探偵に向ける優しい距離を宿して、彼の家を見つめて。
名探偵が追いかけてくると思ったから続けていたのに。
理不尽な怒りを抱きながら離れたところから家を眺めていると、完全に陽が落ちてから家に明かりがついた。彼の部屋にひとつ、リビングにひとつ。玄関にはつかず、それだけで名探偵が全てを拒否しているのが分かった。
インターフォンを鳴らしても、やはり返事はなく、部屋とリビングの明かりが落ちたのが唯一の反応で。
酷く悔しかった。あまりに彼らしくない態度。幾らなんでも変わりすぎではないか?
だから、会いに行った。
その選択が間違ったとは思っていない。だが彼の弱った姿を見たのは間違いだと思う。
輝きを知っている分その姿はあまりに痛々しく、快斗の心に棘を刺した。
一人にしておけない。
そう決めてからの快斗の行動は早かった。
数度の拒絶を受けながらも、強引にその隣に身を割り込ませ、ただ静かに彼の傍に寄りそうようにして。
探偵も徐々に快斗を受け入れるようになり、穏やかな時間が続くようになるのには少しかかったけれども。
だが、今日それが破られた。ほんの一瞬ではあったのだが。
■■■
ソファで抱き合ったまま暫く過ごしていると、徐々に腕の中の身体から力が抜け始めた。
探偵は眠ったようだった。緊張が解けて一気に疲れが出たのだろう。仕方ない、生活リズムが乱れ、発作を起こした上にあの事件。通常の人間でもショックが大きいだろうに、衰弱した今の彼にはどれほどのものか。
色を失った、涙の跡が残る白い頬が痛々しい。
そっと額に口付けて寝室に運ぶ為に抱き上げる。
(……軽い)
柔らかい身体。静かな幽かな呼吸。
同年代の青年にしてはあまりに儚く感じる存在。
硝子細工を扱うような慎重さでベッドに横たえると、僅かに身じろいだが、直ぐに安定した寝息が聞こえるようになった。
暫くその寝顔を見詰め、快斗は音を立てぬように部屋を出る。
リビングに戻って冷めた紅茶を入れなおす。
その間もずっと、快斗の脳裏から離れない光景があった。
(………怖かった…)
背を向けた男。
組み敷かれ、身を震わせていた探偵。
その光景の凶暴さ。
残忍な欲求を全身に漲らせた男と、今にも事切れそうなか細さに包まれた探偵が、快斗の思考を一瞬で麻痺させた。
殺してやる、と。
そう思った。
男が退いた為に解放された探偵の目を見る瞬間までは。
恐怖と苦痛に塗りつぶされていた青い瞳が、快斗の姿を映した途端、全てを預けるように安堵に潤んで。
発作の為にその色は直ぐ失われたけれど、抱いた殺意はその時にはもう消えうせていた。抱き寄せれば震える身体で、それでも縋るように身を寄せてくれた。
無意識の行動だったのだろう。
だが、だからこそ快斗は男を殺さずに済んだ。
あとはもう急展開だ。
男を縛り上げたと同時に警官を引き連れた主治医が飛び込んで来て。
目を開けた探偵に涙が溢れそうになるほどほっとした。
警察の立て前本名を名乗ってしまったけれども、彼の危機の前にそんなことはどうでもいい事だ。
彼が失われずに済んだという事実、それだけが快斗をこの場に存在させる。
「お邪魔するわよ」
不意の声に振りかえれば、隣の主治医がリビングの入り口に立っていた。
未だに白衣姿である事からも、彼女もまだ緊張が解けきっていないのだと計り知る事が出来る。
「……姫」
「彼は眠った?」
「ええ」
「そう、良かった」
珍しく心からの安堵を言葉に乗せ、快斗と対面のソファに腰掛けた。
彼女の分の紅茶をと立ちあがろうとする快斗をおしとどめ、主治医は軽く目礼をした。
「今日は有難う、彼を助けてくれて」
「礼を言われることではありませんよ」
「いいえ、言わせてもらうわ。貴方が来なくても助かったかもしれないけれど、それでは遅かったかも知れ無かったし」
発作を起こしていた事を考えればその可能性は否めない。
真剣な表情に、本当に危険だったのだと改めて知らされ、快斗は強く眉を寄せた。
「名探偵の身体は大丈夫なのですか?」
「正直気は抜けないわ。明日になれば騒ぎにもなるだろうから、彼を何処か安全な場所に非難させたい所よ」
休業中の名探偵を襲った事件を、マスコミが逃すはずも無いし、友人たちも駆け付けるだろう。
安全な場所が隣接した阿笠博士の家を指しているとは、二人とも思ってはいない。一種の目くらましにはなるだろうが、静寂を欲するのは難しい。
ホテルなどを借りたところでやはり同じではあろうし。
「ねえ、怪盗さん? 御願いがあるんだけど」
「何なりと、姫?」
■■■
ふと話し声に目が覚めた。
暫しぼんやりと瞬きを繰り返して、違和感に眉を寄せる。
何かが違う。
(……ここどこだ……)
天井が自分の部屋じゃない。リビングでもない。自宅のどの部屋の天井でもないのだ。
見まわせば窓があって本棚があって机らしきものがあって、自分が横たわって居るのは確実にベッドな訳だけれども。
(…………?)
異常が無いかを確認しながら身体を起こす。
ぼんやりと見まわしていると小さなノックがして、返事をする間も無く静かに扉が開く。
「目が覚めたましたか」
「KID……」
言葉とともに部屋の明かりがついて、入ってきた怪盗に新一はほっと息をついた。
Yシャツにスラックス、顔にはモノクルという不可思議な出で立ちではあるが、それが違和感を感じさせない辺りが彼なのだろう。
体を起こそうとする新一をおしとどめ、椅子を引き寄せてすぐ隣に座る。
「取り敢えず説明します。現在時刻は午後九時、事件からは約一日立ちました。名探偵が眠った後に姫と相談しまして、ほとぼりが冷めるまではあの家から非難した方が良いだろうという結論に達しました。マスコミが放っては置かないでしょうから。
事実先ほどの姫の連絡では、家の前には報道関係者が群れをなしているそうです。一応目暮警部が見回りの警官を寄越してくれたと言っていました」
「……だろうな」
「だからといってホテルなどでは足がつくでしょうし、病院では親しい人物は簡単に通されますし。ならばと、そのどちらにも探し出せない場所を私から提供させて頂きました」
満面の笑みを見せた怪盗の言葉に、しかし新一の眉が寄る。
「…お前の隠れ家?」
「はい。少々ご実家からは離れていますから知り合いに知れる事もありません。やはり人に会わない方が名探偵も楽でしょう? それにこれは姫からの要望でもありますし」
何とも言えない顔になった新一にウィンクすると、怪盗がおもむろにサイドテーブルに乗ったハンドベルを取った。
「私自身はここに居続ける訳にもいきませんので、代わりの者をお付けします」
ちりりん、と可愛らしい音がしたと思ったら、数拍置いて扉がノックされた。怪盗の応答に扉はその重厚さを感じさせずに開き、現れたのは眼鏡をかけた白髪の老人。品の良い笑みを浮かべて怪盗の背後に従った老人が、新一にそっと頭を下げる。
「彼は寺井。私の協力者と言えば、信用の置ける事はご理解いただけるでしょう?」
「教えていいのか?」
「名探偵に必要な人物ですからね。それに今の貴方が彼をどうこうするとも思えないですから」
一歩進みでた老人がゆっくりと新一に向かい頭を下げる。
「不肖ながらお世話をさせて頂きます、寺井と申します。新一様の事は坊ちゃまに聞いておりますので、どうぞご安心ください」
「…………え、あ、はあ」
「我が敬愛する名探偵殿に何か飲む物を。あと、食事は胃に優しいものを用意して差し上げてくれ」
「かしこまりました」
新一の反応など全く気にせずに、寺井と名乗った老人はスタスタと部屋を出て行った。
唖然と見送る新一に笑い、そっと額にかかる髪を払い、頭を撫でる。
「どうしました? そんな顔は珍しいので、私としては眼福なのですが」
「…………お前って…」
「はい、なんでしょう?」
優しく撫でられて目を細めながら、しかし探偵は予想とは全く違う事を口にした。
「…………お前ってお坊ちゃまだったんだ?」
「……チガイマス」
絶句した後がっくりと肩を落とし、怪盗はそっと心の涙を拭った。