私の命の儚さを






 ベッドの脇に陣取った怪盗の表情が、どこか固い。
 果たして何があったのやら。ポーカーフェイスが常の男が、不機嫌な気配を幽かに漏らしている様は少々驚きでもある。

「…………何か、あったか?」

 試しに聞いて見ると、不機嫌な気配がすらっと消えて、鉄壁の笑みが向けられた。

「何かあったように見えますか?」

 正直、恐い。
 この怪盗がこんな風に笑う事自体があまりないので、逆に何を企んでいるのかが図れず、下手な事を口走れないのだ。

「………………」
「名探偵?」
「…………ナンデモナイ」

 ニコヤカな笑みが恐いデス、とは、口が裂けてもいえない。
 そんな新一の心境を知ってか知らずか、怪盗は音も立てずに立ちあがり、投げ出していた手を取って口付けた。

「それでは名探偵、今日はこの辺りで失礼させて戴きます。くれぐれも無理はなさらないように」
「あ、ああ……」

 寺井には傍に控える様に言い残し、怪盗はいつもながら鮮やかな身のこなしで部屋を出て行った。

 見送る二対の瞳が、ゆっくりとその視線を合わせる。

「…………何か、あったんですか…?」

 そっと聞けば、やはり何時もの飄々さは無く頬を引きつらせた寺井が、ぎこちなく首を傾げた。

「…さあ……灰原女史の元へ行かれた後から、ああなられているのです」
「そ、そうですか…」

 ならば彼女に聞けば解る事なのか。
 ちょっと考えた後、新一は考えた旨を寺井に伝えた。





 些細な切っ掛けで、バランスと言うのは崩れ易い。
 ほんの小さな失敗だったり、一瞬の気の緩みから生まれた大崩壊だったり、しかしまあそんな数ある切っ掛けで人と言う物は簡単に崩れてしまうのだ。
 体も。
 心も。





「西の探偵さんが来たのよ、貴方に会わせろって。
 まだ時期じゃないって言って追い返したけれど、その時に黒羽君と鉢合わせて、ちょっと言い合いになったの。br  しっかり言い負かしていたから、別にどうという事もないと思うわ。
 大した事では無いから、貴方も気にしないようにね。
 今は兎に角休む事だけを考えて、ちょっとのバランスの崩れが全ての崩落につながるって事、忘れ無いで頂戴」





 この会話を、後に彼女は後悔する。





■■■





 食事の膳を下げに部屋に入った寺井は、目を疑った。

 綺麗に整えられたベッドには、小さなメモだけがその身を預けており。

 遮光カーテンと柔らかなレースのカーテンが、冷え始めた夜の風に揺れていた。





■■■





 怪盗KIDの舞台に、西の高校生探偵が上がるのは随分と久しぶりの事だった。
 以前は不慮の事故で追う事が出来なかった分、その意気込みも半端では無い。熱血振りは中森と良い勝負だった。
 だが、熱いのは彼等だけではなかった。
 その場に同行した刑事、警官たちもまた、異様な熱を放っている。
 良く見れば、その場に待機しているのは二課だけではなかった。一課の刑事もちらほらと姿を見せ、何かを心待ちにしているようだった。

 その中に、一課警部の目暮が、不信げに平次に声をかける姿があった。

「工藤君が来ると言うのは本当かね?」
「ほんまや。今日の捕り物に参加せぇて誘ってみたら、行くて言うたからな。自力で行くから遅れるかも、とか言うとったけど。」
「服部君に電話があったのかね!?」
「ああ、本人からきちんとな。やっぱあの姉ちゃんとこいって正解やったわ。」
「……。」

 工藤新一が他人と連絡を取らなくなって久しい。

 行方不明の間、彼の身に何が起こっていたかは父親である優作から聞いた。
 その後もとの姿を取り戻した彼自身からも連絡と説明を貰ったし、主治医とだと紹介された少女からは彼に起こっている事を厳しく、しかしきちんと説明された。彼の性格から、弱った自分を見せる事は耐えられない事や、安定を持つのには時間がかかる事も、全て。

 だからこそ、幼い頃から知っている目暮ですら一切の接触をしなかった。
 一月ほど前にあった強盗事件でやっと顔が見られたが、事情聴取を取った後、主治医の少女や博士の口ぶりからもその体調の悪化は余程の物だと判断したのだが。
 その彼が、一体どうして?

 難しい顔で悩む目暮を安心させる様に背を叩き、平次はさて、と顔を上げた。
 その視線の先に、一台のタクシーが止まる。
 平次の視線を追って顔を上げた目暮が、降りてきた人物を見て「おお」と声を上げて、手を振った。

「工藤君!!」

 その言葉に、現場の警官全員が顔をあげ。


 その姿に、動きを止めた。





■■■


『申し訳ありません、まさかご自分から外に行かれるとは…』
「気にしなくていい。それよりも姫に連絡を。道具用意して待っててくれって伝えて、俺も仕事終わらせたら直ぐに行くから」
『は…………しかし、新一様は何処へ行かれたのでしょう…』
「…電話をしてたって言ったよな? 相手は姫だけ?」
『履歴には携帯番号らしき物がありました』
「言ってくれ」

 受話器から聞こえた番号と記憶を素早く照合し、怪盗はくっと眉を寄せた。

「なるほどね」
『現場に行くと書かれておりましたから……』
「うん、多分俺のところだろうな。探す手間が省けて助かるよ」
『坊ちゃま……』
「ちょっと予定変更しよう。すぐこっち来て」
『はい』

 ぷつ、と電源ボタンを押し、ゆっくりと立ちあがる。
 風に煽られたマントが翻るのを何とはなしに見つめ、厳しい表情を崩さないままに勢いよく顔を上げた。

 予告時間まであと一時間。

 せめて、その間だけでも、彼に何もない事を祈る。


■■■





 ゆっくりと目の前に歩み来た新一を見て、平次は言葉を失っていた。
 かけようとした言葉は、全て口の中で溶けてしまう。

「く、ど………」

 まさかこれほどとは思ってもいなかった。
 以前から線の細かった体は、それでも引き締まっているのがわかる物だったのに、今の彼は倒れても不思議では無いほどに痩せている。白い肌はそれこそ病的に色褪せ、しかし熱があるのか頬は上気していた。

 一杯に花弁を広げて、芳香を纏い輝く花のような。

 散り際の花の危うさをまとって、彼はそこに立った。


「工藤君、来て大丈夫なのかね!? 宮野さんたちはこの事を……」
「知っていますよ、大丈夫。無理はしないと言って来ましたから」
「そ、そうか………だがねえ、」
「とにかく、今回の予告状と場内見取り図を見せていただけますか?」

 反論は許さないといった笑みを見せる新一に、目暮も口を噤むしかない。
 二、三歩歩みより、足を止めてしまった平次に気付いたらしく、新一の視線がついと流れた。

「どうした?」
「へっ、あ、いや」

 おたおたとし、口篭もってしまった平次には全く注意を置かず、そのまま警部が持って来た地図に視線を向ける。そのまま話し合いに入ってしまった。

 周囲の誰も、彼が健康であるとは思わなかった。
 彼がこのまま、全てが終わるまで何もなくいられるとも。
 だが誰も、呼び出した平次を初め、誰もそれを彼に伝え、控えるようにと言えなくなっていた。

 だから、中森警部の言葉に、誰もが顔を強張らせた。

「工藤君、君は現場を馬鹿にしているのか!?」

 ずかずかと警官達を押しのけて、目暮や新一の傍までやってくると、無造作に新一の腕を掴みあげた。少しゆったりとしたシャツだっただけに、掴めば腕の細さは際立って見える。相手が頑強な体を持つ中森だった事もあだとなった。

「こんな折れそうな腕をして!! 腕がこれなんだから身体の方なんそ見なくても解るもんだ!!
 工藤君、ここは子供の遊び場じゃあない、病人がふらふらやってきていいような場所じゃあないんだっ!! 君が優秀な頭脳を持っているのは知っているが、そんな状態でまともな推理が出来るとも思えん!!
 悪い事は言わん、帰りたまえ!!」
「中森!!」
「黙れ目暮! ここの責任者はわしだ、介入する民間人の選別も、わしに決定権がある!! 大体何故こんな状態の人間を介入させようとするんだ!? 身体を壊している事は知っていたんだろう!!」

 憤懣やるかたないといった風情で腕を離すと、そのまま背を向ける。

「君の介入は絶対に認めん!! 分かったな!?」

 厳しい声を残して再び去って行く中森に、誰も声をかける事が出来ない。

「………工藤君、気に、せんようにな? アイツもアイツなりに君の事を心配しておるんだ」
「…………ええ、解っています。中森警部のおっしゃる事は正しいですし」

 こんな姿では誰も認めてくれないでしょうね。

 暗い表情で笑うと、新一は畳んだ地図を目暮に渡し、もう用は無いといいたげに平次に振り返った。壊れそうな雰囲気の中、強く光る瞳に射貫かれて思わず姿勢を正すと、震えかけた膝を叱咤して新一に歩み寄る。

「済みません、別行動でもいいでしょうか? そちらに迷惑はおかけしませんから」
「し、しかし…」
「大丈夫ですよ、服部も居ますし。無茶はしません」
「せやけど、工藤……ほんまに大丈夫なんか?」

 つい言葉にしてしまった。
 細められた目が鋭く平次を捕え、抜き身の刃を首筋に当てられたような寒気が身体を冷やす。

「それじゃあ、失礼します………いくぞ、服部」
「ああ、くれぐれも気をつけるてな! 服部君、頼むぞ!」 「あ…ああ、任しといて!!」

 頷いては見たが。

 平次の心に差し込んだ影は、どうしても消す事が出来なかった。





■■■



 相談をする事も無く指示されたままに道を走りながら、平次はずっと背後の存在に神経を向けていた。
 腰に回る腕はやはり細く、篭もる力も以前と比べ弱いものだ。
 どうしても気が漫ろになる平次に気づいているのか、身を捩る度に背後から諌めるようにごつんと腹を殴られる。

(………こんなん…嫌や)

 あんな風に詰らせる為に彼を呼んだ訳ではない。
 ただ、以前のように、共に推理をしたかっただけだ。

(何であんな言われなならんのや……あのおっさんも少しは気ぃ使えっちゅうねん! …いや、ずっとこんなんやて隠しとった目暮のおっちゃん…ちゃう、其以前に隠れたまんまになっとった工藤が元はと言えばあかんのや!!)

 ぐるぐると思考に耽っていた平次の腹を、弱々しく拳がぱしぱしと叩いた。

「何してやがる、服部!!」

 気付けば目的地と設定していた場所を大きく行き過ぎており、再び背後から容赦無い拳(それにしたって平次には軽い物だ)が降ろされる。
 慌ててのろのろとUターンしたが、新一の機嫌は一気に下降した様だった。

「ったく、何寝惚けてやがる。どうせ下らねぇ事考えてたんだろう」
「至って真面目な考え事や」

 スタンドを降ろし、メットを外してふと横を見れば。

「工藤、何しとん」
「あぁ? てめぇこの後に及んでまだボケてんのか」

 ぎろりと睨み返し、平次が言葉を発する事が出来ないのを知らぬまま新一も外したメットをハンドルにかけていた。

「ちょおまてや、せやったらお前も行くんか!?」
「行かないなら何でここにいる必要があるんだよ!!」
「せやけどお前が言うたあのビル、10階近くあるやんか! こんな時間人もおらんし、階段上るしか無いんやで!? そんな…」

 身体で上れるんかい、と続けようとして、息ごと言葉を飲み込んだ。
 てっきり睨みつけてくると思ったからだったが、新一はあっさりと背を向けてビルに向かって歩き始めて居た。

「お、おえちょお待てや!」
 慌てて追い縋った後も、二人の間に会話が生じる事は無かった。





 非常階段を5階ほどまで上った時、背後で続いて居た足音が不意に途絶えた。はっとして振り返れば手摺に凭れた新一が、俯いたまま荒い呼吸を抑えようと深呼吸を繰り返して入る所だった。

「工藤!!」

 駆け寄って肩に手をかけようとしたら、寸前で叩き返される。顔をあげる事無く、片手のジェスチャーで「先に行け」と示されたが、しかしそのまま放って置くことも出来ずに、平次は下から覗き込む様にその場にしゃがみこんだ。

「工藤、ここで待っとき。直ぐ終わらせて戻ってくるし、お前もう無茶したらあかん」
「………………けんな……」
「せやかて自分、半分でそれやったら帰る時もっとしんどいで? 俺が電話で言うた事気にしてそれでこんな無茶したんやったら、もう何もせんでええから! 俺がアホやったんや。俺かてそんな状態なったら誰とも会いとうないもん………やから、お願いやからここで休んどって?」
「…………」
「直ぐや、ほんまに直ぐやから、待っといてな!!」

 振り切る様に駆け上がって行く平次に、文句を言おうと息を吸い込み咽る。無理矢理呼吸を抑えて階段を数段上ったが、新一にはそこまでが限界だったらしい。
 崩れた膝に、咄嗟についた手も役に立たず、そのまま階段に横たわる様にへたり込んでしまった。

「…く………」

 耳障りな鼓動と重たい頭が、自分の身体がどうなっているかを知らせている。
 唯でさえ熱を出した状態だったのに、それをおして来たのだ。これでまた暫くはベッドと親しくなる事しか出来ないだろう。

(やっと固形物食える様になったんだけどな……)

 これではまた重湯やらに戻る事になるか。
 錆びた階段の冷やかさに、ほぅと息を吐いて、ぐったりと身体の力を抜く。
 新一の意志では、無い。

(やべ……愚痴るどころじゃねぇよ…)

 このまま意識を失えば、簡単に死の淵に飛びこめそうだ。
 取り敢えず足掻いて見はするものの、身体は動かず頭痛も動悸も収まろうとしない。気づけば瞼は落ちていて、先ほどは心地よかった階段に身体の熱がごっそりと抜き去られて行く。

(宮野…怒ってるだろうなあ……寺井さんにだって、心配かけてるだろうし…それにアイツも…)

 今ごろ仕事を終えているだろう、彼も。
 きっと連絡はいっているだろうから、きっと何か考えて居るかもしれないけれど、果たしてここに来るだろうか? 予測の範囲なだけであって確実では無いのだ。寧ろ彼の方が近付いて来てくれていたと考えるのが当然だろう。

(上手く仕事が終わったとして…風速諸々の事を考えるとここまで…………くそ、纏まらねぇ)

 熱と頭痛が邪魔をして思考が纏まらない。
 その間にも身体が冷えてゆくのが解る。今いる非常階段は吹き曝しの状態で、加えてビル郡の中に在る為、風も強く吹きつけて来る。
  徐々に指先の感覚が抜けてくるのを感じながら、新一はじわじわと迫るその時に怯えを隠せなくなっていった。