ばさりと翻った白いマントが、だが常の落ちつきを欠いて掲げられた腕の動きに緩くうねるのを、平次もまた落ちつき無く見つめていた。
怪盗KIDの儀式など、平次には関係無い事だ。だがこの儀式を済ませるまでは、KIDに触れる事は出来ない。宝石を取り返す事もままならないどころか、そのまま別の場所へ移動される事すらあるのだ。一刻を争う今、それだけは避けなくてはならない。
「とっとと寄越さんかい、今日はおんどれに付き合うてられんのじゃ」
焦りを額に滲ませて、口調も乱暴になっている平次を視線だけで確認し、KIDは翻ったマントを腕で払いのけた。
「奇遇ですね、私も同意見なのですよ。獲物が急遽二つに増えてしまいましてね。しかも後一つの獲物は酷く些細な事で壊れやすい、儚いものなのです」
「さよか、せやったらはよそれ置いて行けや」
「ええ、ではどうぞ」
果たして何時もならば、ここで勿体振りそうなものなのだが、あっさりと平次の手の中に放りこまれた。
ぐっと握って顔を上げると、殺気めいた視線が向けられている事に気付く。
「…何やねん、はよ行けや!!」
「どうしても貴方にお聞きしたい事があるのですよ。……何故彼を呼んだのです?」
一瞬問われた内容に気付かず、だが直ぐに視線を返す。
「………あいつが探偵やからや」
「それが彼の寿命を縮める事になっても?」
「あいつは探偵として生きるのが当然な奴や。這いずってでも、仕事に食いつかんようなあいつは、探偵やない」
「そうですね。私も彼が居ないと張り合いが無い」
あっさりと警察やそれに協力する探偵達を侮辱する事を吐き捨て、嫣然と笑う。それに怒鳴り返しそうになりながらも唇を噛み締め、平次は言葉を探した。
「でもそれが間違いやったのは分かった。今のあいつは探偵なんてやれん」
「……」
「身体が資本な職業やからな……今のあいつに、まともな推理が出来る訳ないし、あんな身体やったら犯人捕まえる事も…。………副作用がこれからも続くんやったら、この先探偵を続ける事も出来ん。あいつには………」
「私が言った事を、理解なさっていないようですね」
冷たい声が、風に舞い散った。
はっとして見れば、KIDは白い影を引きながら平次の隣を通り過ぎ、非常階段へ向かっている。
「ま、待てや!! 何で階段使う必要があるんや、お前やったら飛んでいけばええ事やろうが!!」
「生憎と、もう一つの獲物はこの下にあるのですよ」
とん、と軽い音を立てて、KIDの姿が階段に消えた。
幽かだが確実に階下に向かっている足音と、彼の言い残した言葉に、平次も慌てて階段を降りはじめる。
流石に5階分の階段は膝にきたらしい。
半ば倒れ込むように踊り場に辿りついた平次の目に映ったのは、白い布に包まれて青い顔で横たわる新一と、使用済みの注射器とアンプルを袋に放りこみながら、携帯を耳に当てているKIDの姿だった。スーツやモノクルはそのままだが、シルクハットは何処へ行ったか既に無く、マントは良く見れば新一を包んでいる布がそれだった。
「うん……体温が下がりすぎてる、場所が悪かったんだ、吹き曝しの階段で倒れたらしくて汗と階段の冷気のせいで一気に………うん…うん、解ってる、直ぐに運ぶから用意して待ってて」
唖然と見やる平次など目もくれず、袋をスーツの内ポケットにしまうと素早く、しかし細心の注意でもって新一を抱き上げる。首が仰け反った拍子に幽かに息が漏れた音が、風鳴りよりも大きく響いた気がして、平次が思わず居住まいを正した。
「ちょっ、待て!! 何処連れてくつもりや!?」
「決まっているでしょう、姫のところへです」
何を言っているのだと冷たい目で見られ、首を竦めた平次を、KIDはさらりと視界から消した。
そのまま素早く階段を降り始めたKIDの後に続き、ふと胸に湧き上がった違和感に、そのまま疑問を背中に投げつけてみる。
「…………お前、もしかして、あの黒羽か?」
「だったら今すぐ逮捕してみますか? それとも警部に連絡を?」
「そんなんしてる暇があったら捕まえるわ!! せやけどお前大人しゅう止まる気ぃないやろ」
「生憎暇ではありませんから」
「何でお前が工藤の事……」
「申し訳ありませんが質問は後にしてください」
いかにも面倒ですといった返答に会話のやるきのなさを感じて、それ以上を問う事が出来ない。
結局そのまま下まで降りたが、KIDは迷いもなく表通りへ向かい始めた。
「KID!!」
「何だよ五月蝿いなあ!! 名探偵の事殺したいわけ!?」
「んな訳あるかいッ!! 車も無いのにどうするつもりや! その格好でタクシーでも拾うんか!?」
「あんた根っからの馬鹿!? 用意してるに決まってるだろ!」
眦を上げて叫び返した(平次のしつこさに流石のポーカーフェイスも吹き飛んだようだ)KIDの背後から、ハイビームが浴びせられた。
目を焼く光に思わず手を翳して見る。光の中、車から誰かが顔を出してKIDを呼んだ。それに答えてKIDが新一を抱いたまま車に乗りこんだのが気配で分かった。
「KID!!」
車は平次を掠める様に路地を曲がり、勢いよく走り去って行った。
暫く呆然とそれを見送っていた平次だったが、我に返ると慌ててバイクへと戻って行く。
彼の言った、姫の場所へと戻る為に。
■■■
何度か声が聞こえた。
しかしそれをきちんと認識できるほど、しっかりと覚醒は出来なかった。
■■■
薄暗い部屋の中、二人の男女がベッドに眠る人物を見つめていた。
「……迂闊だったわ」
「しかし選んだのは彼です。貴方が悔やむ必要は…」
「いいえ、彼ならばそうするだろう事を見抜けなかった為に、こんな事になってしまったのだもの」
吐息と共に、視線はベッドに移る。
つい半刻前までは熱も高く辛そうにしていたが、今は落ちついているらしいその人に。
西の探偵は、その姿を見るのは耐えられないと言って居間にいる。
快斗にしてみれば笑止としか言えない。相手の真実の姿から目をそむけて、何が探偵だ。それで彼を語ろうというのだから全く持って本末転倒では無いか。面と向かってそれを言ってやると、言葉に詰まり顔を背けた。
「本当に無茶をなさる…」
細い腕に繋がった点滴の管が、滴る雫と共に小さく揺れる。そっと指に触れてみると、頼り無く震えた。
「あんな奴に何を言われたか知らないけれど…本当に………」
「……仕方ないわ………彼が探偵であろうとする心を止める事は出来ないのだから」
寂しげに呟いた少女の瞳は悲しげに揺れて、しかし絶対に涙を零すまいとした意志で輝いている。ただひたすら、新一の様子を見逃すまいとして気を抜かぬ姿は凛として美しく、だからこそ彼女が彼に依存する度合いの深さを知らしめて、快斗の心に痛い。恐らく自分も似たような表情で彼を見つめているだろう。
手を伸ばし、投げ出された手にそっと触れる。
あれだけの熱が出たにも関わらず、その指先は氷のような冷たさを放っている。
「……名探、」
「やめて」
指先を握って呼んだ途端、志保が悲痛な声で囁いた。
見れば志保は視線を新一から動かさないまま、唇を噛み締めている。
「やめて……休んでいる時位、そんな名で彼を括らないで」
「姫……」
「彼がそれ以外の人物で居られないのは分かってる。でもせめて今位、全ての枷から離してあげて」
それは快斗にも志保にも通じる哀しみだ。
怪盗KIDとして、シェリーとして、それは彼等を構成する重要な部品で、だが時として重荷でしか無くなる部分でもある。
自分である為に抱かなければならない、重責。
そんな物を欲して産まれたわけでは無いのに、運命は狙いを定めた矢の如く、柔な人の身に突き刺さる。
「………黒羽君、休まないの?」
「姫こそ、処置してからずっと休んでおられないでしょうに」
譲り合いながら、だがその根底にある独占欲に気付かないほど愚かでも無い。
彼等は酷く似通っているから。それを知り、互いに疲れた笑みを交わして、二人はそれぞれベッドの両脇に椅子を移動させた。
彼を守るのも支えるのも、二人でと決めたのだ。下らない独占欲で相手を蹴落とすなんて出来ない事、ならば共に傍にあるべきで。
それでも、現状の緊急事態に対処出来るだろう相手を見極めて、快斗が動く。
「少し待っていてください、毛布を持ってきます」
「ええ」
部屋を出た途端阿笠とぶつかりかけ、快斗は目を丸くした。
阿笠の手に乗ったココアとサンドイッチのトレイを見、そういえば食事も忘れていた事にやっと気付く。気付くと身体は正直に空腹を訴えて胃を鳴らした。
「新一はもう落ちついたんじゃろ、ならば志保君も快斗君も一息入れねばの」
ほれ、と渡されたトレイは、老人の優しさそのもののように暖かい。
彼の温もりは寺井とはまた違うものだ。あの名探偵を幼い頃から見つめ続け、コナンとなった後も支え続けた、そして今、新一と志保、快斗を見つめている彼の中には、きっと自分たちへの沢山の言葉があるのだろう。しかしそれは決して自分たちに向けられる事はなく、ただただ自分達を包む優しさとなっている。
父母とも違う、友とも違う、歳を経たゆえの包容力とでもいうのだろうか。
「快斗君?」
「あ、いえ。ちょっとぼうっとしちゃって」
「君も休み無いからのお…どうせ新一の傍で休むのじゃろ? 後で毛布も持ってこよう」
「いえ、その位自分で…………」
「いいんじゃよ。わしに出来る事はその程度じゃからな。今は休むんじゃ、いいな?」
子供を宥めるように頭を撫でた阿笠に謝辞を述べ、快斗は今出たばかりの部屋へと戻って行った。
その背中を哀しげに見つめて、軽くかぶりを振って、阿笠もまた別の部屋へ入って行った。
冷たい指先を握り締め、額に浮いた汗をタオルで拭いながら、快斗はベッドの反対側に突っ伏す志保を見る。静かな寝息が聞こえて、快斗は幽かに笑みを浮かべた。
彼女もまた、快斗同様に新一の手を握っている。白い額が赤毛の合間から見え、細い眉が苦しそうに寄せられているのが分かった。彼から離れるまいと、少しの身動ぎもしない様子は彼女の抱く不安を見せつけられているようで、酷く胸が痛い。最もそれは快斗も同じなのだが。
「…………ぅ」
聞こえた声に顔を上げる。
うめきを上げ、幽かに目を開けた新一がゆっくりと頭を巡らせるところだった。
熱で潤んだ青い瞳が、快斗の姿を捉えて瞬いた。
「目が覚めましたか……」
何かを言おうとしたか唇が震えたが、はっきりとした声が出せる状態ではない。
小さな声でも逃すまいと顔を寄せ、優しく髪を梳いた。
「博士の家です。自分がどうなったか、覚えていらっしゃいますか?」
「ん」
「取り敢えず安定はしましたが、まだ予断は許されていません。暫くはここで養生なさってください」
「…」
「寺井も分かっておりますから、心配なさらず」
哀しげに「わりぃ」と囁く声に笑みを返す。
「余りご無理をなさらないでくださいね、私も姫も肝を冷やしましたよ」
ちらりと視線だけをサイドに流し、彼女も傍にいるのだと知らしめてやる。動かない手と視線で分かったか、新一も口元に苦笑を浮かべて幽かに頷いた。
「――きかないのか?」
何があったのか。
何故あんな行動に出たのか。
きゅっと握られた手を、温もりを移すように握り返してやる。
果たして今どれほどの悔しさが彼の中で渦巻いているのだろう。
だがそれは、快斗が知ってもどうこうできる物では無い。
「さて、西の方が何を言おうが、私にとっての結論は一つしかありませんから。それに対して貴方が何を思い行動したのか、本当に話したいならばお話しください」
「―――」
ゆっくりと振られた首にほんの少し安堵した。まだ彼の奥底に入り込む事が許されていない証でもあるとは解っていたが、それでも、強くあろうとする、強く見せようとする新一の誇りに喜びを感じた。
「今はゆっくりお休みなさい。次に目覚めた時には、姫の御説教がまってますからね」
「―――ありがと」
「はい?」
「かいだんで、おまえが、たすけてくれたんだろ」
だれかが、あっためてくれたの、すこしだけどおぼえてる。
「あれ、おまえだろ」
「…また明日にしましょう。さ、傍にいますから……」
「おやすみ…」
「お休みなさい」
青い瞳が瞼の向こうに消えて、先程よりも穏やかな寝息が聞こえ出した。
表情も落ちついたし、熱も下がりつつあるらしい。ひとまずは安心だ。
だがそんな新一をまともに見つめられず、快斗はベッドに突っ伏す。
「反則でしょ、めーたんてー…」
完全にブラックアウトしてたのに。
そんな風に無防備な目で、お礼なんて言わないでよ。
彼を守る為に、快斗はどんなポーカーフェイスも貫き通す覚悟と意地があった。
なのに、である。
新一はたった一つの笑みで、その意志をガラクタに変えてしまった。
布団に押しつけた頬が緩んで行くのを止められないのが良い証拠だ。
どうしよう、こんなんじゃ駄目なのに。
それでも、嬉しいと思う心は止められない。
新一の笑顔をもっと見たいと思う自分は止められない。
「めーたんてー……俺ね、決めた事があるんだよ」
例え相手が眠っていても、こんな緩んだ顔を見せられないので、握り締めた手を見つめる。
そして悪戯するように、手の甲に唇を押し付けた。
「俺ね…めーたんてーを守るよ。守るっていうときっとめーたんてー怒ると思うんだけどさ、でも守りたいんだ」
大事な姫君を守るように?
否。
大事な主君を守るように。
真っ直ぐに全てを見つめるその背中を、あらゆる敵から守りたい。
「認められなくてもいい、貴方を守らせて…」
呟き、温もりだした指先にもう一度唇を落とす。
まるで忠誠を誓う騎士の様だ。
だがそれでいいのだ。
誰にも知られない、自分だけの儀式にするから。
これは自分への誓いなのだ。
そんな事を思いながら、快斗の意識はゆっくりと夢の中へと沈んで行った。