私の命の儚さを 〜静かな夜の子守唄






 彼の傍にありたいと願うならば、この身に巣食うものを抑えねばならない。
 彼の傍にあるだけに居るわけではないけれど。

 彼の傍で見つめるもう一つの目を、鏡として、共に。






 器用な指がボタンを止め始めるのを確認して、私は机に向き直った。

「薬は出しておくから、今日は何も言わずに休んで頂戴」

 彼は少し不満げに鼻をならしたが、それでもきちんと頷いた。こういうところは『彼』と違って素直で、とても助かっている。
 彼と私たちが目的を果たしたとはいえ、彼は彼で稼業を続け、私と『彼』は元通りとは行かない身体を抱えているのだ。特に彼は、私と『彼』を背に庇い矢面に立つことが多い。だからこそ怪我や体調不良は治せるときに治し、有事に備えるという意識は一番強かった。
 この意識を『彼』にもきちんと持って欲しいものだが、そう上手くいかないのが人であり、それが『彼』を支える諸刃の力であることは私も彼もよく分かっている。

 彼―――二代目怪盗キッド・黒羽快斗。
 私―――ある組織の科学者だった、宮野志保。
 そして、『彼』―――日本警察の救世主と名高く騒がれていた高校生探偵・工藤新一。

 今私の目の前で身なりを整えているのは、怪盗キッド。
 彼は稼業もあって、私たちの中で一番闇に近く立っている。そのせいで様々な輩からちょっかいを掛けられるのだ。
 今日私が腕を振るわされたのもそのせい。
 腕が立つ彼には物量を携えた精鋭が向けられる。烏合の衆とは明らかにランクの違う者達に、流石の彼も掠り傷(本人曰く、だ)を余儀なくされる。

「志保ちゃん?」
「―――何かしら」
「珍しいね、考え事なんて」

 少し思考に沈んでしまったようだ。
 着替え終わった彼が、隣人に良く似た顔に気配の違う笑顔を載せて私を見ていた。

「ちょっと顔色悪いね、疲れてる?」
「たった今まで疲れさえてくれてた人が言う言葉じゃないわ」
「……ごめんね」

 からかう様な色が消え、ちょっと首を傾げて、労わる様な優しい笑顔。
 普段は全く正反対の癖してこんなところだけは似ている。
 『彼』も、診察が終わるたびにいつもこんな笑顔を見せるのだ。

(悪ぃな…)

 そんな小さな言葉を零して、柔らかく笑う。

「……志保ちゃんも休んだほうがいいね。今日の体調は?」
「平熱よ。血圧も平均値だし血液内の酸素含有量も適度。三食だってきちんと取れてるわ」
「でも少し疲労溜まってるね、目が疲れてる」

 軽やかにトランプを捌く、男にしてはほっそりと長い指が私の目尻に触れた。そのまま髪に絡まり、優しく優しく梳かれる。
 しっとりとした手のひらが頬に触れた。見上げれば、微かに紫がかった瞳が、じっと私を見下ろしている。

「志保ちゃんが倒れたら、俺と博士じゃ新一の事面倒見切れないよ。新一に強く言えるのって志保ちゃんだけなんだから」
「貴方も博士も、結局は彼に甘いんですものね」
「俺無邪気な子猫に弱いんだv」

 にこぱと笑いウインクされ、つられて笑みを零す。
 確かに『彼』は猫のような人だけど。

「子猫なんて可愛らしいものかしら」
「ま、そこはそれって事で」

 髪を梳く手はそのままに、空いた手がぽふりと花を生んだ。
 ふわふわとした多弁の花が、ぽふ、ぽふ、と彼の指から散り行くのを見るのは嫌いじゃない。
 子供だましだけれど、疲れた心には温もりを与えてくれる。

「志保ちゃんも、子猫だよね」
「そんな可愛らしいものかしら?」
「可愛いよ。新一と一緒にいるところころじゃれあって見える」
「それは貴方でしょ。二人でいると子犬と子猫がじゃれあってるようにしか見えないわ」
「えー」

 また一つぽふんと花が零れ、しかし次は無いままに頬を挟まれた。
 私の顔を見つめた瞳に、思わず膝の上に落ちた花を握り締める。

「―――――何?」
「………新一、結果良くなかった?」
「……」
「誤魔化さないでね。きちんと教えてくれるって約束したんだから」

 どきりと、心臓が弾んだ。


 何故かしら?
 彼も、『彼』も、何故分かるの?

 聞けばきっと、彼ららしい笑みを浮かべていうに違いないのだ。

 『探偵だから』と。
 『怪盗だから』と。


 手の中の花が、ぐしゅっと潰れた。

「……こんな時、貴方たちが憎いわ」
「あれれ」
「何故そんなに簡単に、私の心を見つけ出すのかしら。お陰で逃げられもしないし隠せもしない」
「まあ、俺たちだし、ね」
「そのくせ、私を追及することはしないのよ。それがどんなに辛いかも知らないで。――いいえ、知っていても、出来ないんだわ。なんて人たちなの、そんな思いやりが欲しい訳じゃないのに」
「うん」
「だから、だから――――抱きしめてくれないかしら」
「お安い御用ですよ、姫」

 そっと引き寄せられ、着やせして見える胸に額を落とす。
 人が人である限り共にあるリズムが伝わってくる。
 少しだけ、落ち着ける。

 こんな愚痴はしょっちゅうだから、彼らは何も言わない。
 私も、これ以上は言わない。

 助けて欲しい、なんて、絶対に言わない。

「ありがとう」
「もう少しこうしてようか?」
「いいえ、結構よ」

 そっと身体を離して、小さな沈黙を置いて。

「悪い訳じゃないわ。ただ少し不眠が続いてるみたいね。薬で解消できる程度だけど、食欲が落ちてるでしょ」
「落ちてるね」
「体力自体はゆっくりつけていけば良いものだから後回しにして。今は抵抗力が落ちるほうが怖いわ、ちょっと処方を変えるから、合わせて献立を考えてみて頂戴」
「りょーかい」

 何も無かったように笑って、部屋を出て行こうとする彼に。

「二階の部屋、使って」
「……へ?」

 完全に忘れていたらしい。
 ほへ?と首を傾げる眼前に薬を差し出し、最初に彼に言ったことを、私はもう一度口にした。

「薬を飲んだら、今日は休みなさいって言ったでしょう?」

 さっきまで慰めてくれていた手に錠剤を渡し、傍の冷蔵庫からミネラルウォーターを出してあげる。
 何かを言いたげな目に向かい、とびっきりの笑みを用意して。

「私を出し抜いて工藤君の世話に行ったら、呼吸まで止まりそうな薬処方するわよ?」
「はぁい……」

 すごすごと歩み去る姿は、まさしく子犬のようで、やはり笑ってしまう。
 おやすみなさいと声だけをかけて、私は再び机に向かった。