こち、こち、こち、こち。
リビングにある大時計が秒針の音を響かせている。
こち、こち、こち、こち。
快斗は動かない。
動けない。
じっと、目の前のベッドに横たわる人を見つめている。
白い顔。
青い陰。
細い息。
人形のような、人。
その瞳が開くのを、待っている。
大分体調が戻った新一が突然倒れたのは2日ほど前だった。
快斗の目の前で。
コーヒー片手に笑っていた新一の顔が、不意に訝しげに曇った。
首を傾げた快斗にも目を向けず、テーブルにカップを置くと、は、は、と小さな呼吸を繰り返して。
「新一?」
う、
「しん、」
く
「新一!」
がくんと上半身が前に折られ、ぐぅ、とうめく声が聞こえた。
そのままソファから転げ落ちそうな体を必死に捕まえ、抱き起こして見れば、蒼白の顔があって。
「志保ちゃんっ、志保ちゃんっ!!」
心臓の辺りを握り締めて震える新一を抱きかかえたまま、携帯を片手に怒鳴り続ける事しか出来なかった。
突発的な発作。
暫く起こっていなかった。
余りに、長く起こっていなかったから、もう収まったのだと、2度と苦しまずに済むのだと、何の疑いも無く、思いこんでいた。
結果、これだ。
「発作が起こらないからと言って、彼にかかる負担全てが無くなってる訳じゃ無い。調子が良さそうだからうっかりしていたわ。…………もしかしたら工藤君には自覚症状があったのかも」
急ぎやってきて容態を見た志保が言った言葉。
気付かなかったなんて。
一緒に暮らしていて、気付かなかったなんて。
ふつふつと怒りが湧き上がる。
自分の間抜けさ加減に目眩がする。
もしこれが、死に繋がるような発作だったらと、体が震える。
「新一」
そっと触れた額はまだ熱を持っている。
微熱が続いているのだ。
「新一」
呼ぶ事は出来る。
手を握っている事も出来る。
汗を拭う事も出来る。
体を治してやる事は、出来ない。
「新一……っ」
欲しい物をくれた人だった。
偽りの姿でも走る事が出来ると、形だけの正義を真っ向から否定して、強さを快斗にくれた人だった。
『身から出た錆だからな、しかたねぇさ』
そういって彼女の頭を撫でていた。
『確かに完全に元には戻らなかったけど、確かに他の奴等よりも複雑な人生だと思うけど、でもそのお陰で色んな事が分かった。凄く大切な物を手に入れる事も出来た』
彼女の左手を右手に。
快斗の右手を左手に。
優しい熱で包み込んで。
『感謝こそすれ、恨む必要なんてない。考えても見ろよ? いきなり子供になるなんて吃驚な体験して、ちょっと不謹慎だけど、スリリングな生活して、ファンタジーなライバルに会って、大事な友達が出来て、手放せない恋人が出来て、世界一の科学者と世界一の魔術師がいっつも傍にいてくれるんだ』
『これ以上の贅沢って、親父でも探せねぇぜ?』
何故、あんな風に笑えるんだろう?
そう思う位に、優しい笑顔。
守りたいと思った人。
なのに。
「……嘲笑われているみたいだ」
自分の祈りを。彼女の願いを。
ただ彼に健やかにいて欲しいと思う、心を。
「………新一」
「…………、…………」
かすかに聞こえたうめきに顔を上げる。
うっすらと、奇跡の青が姿を現す所だった。
「新一、良かった」
何かを囁いた声は、快斗には届かない。声帯を震わせる力を取り戻していないのだ。久しぶりの大きな発作だったから、思った以上に体力を削がれたのだろう。
「何も言わなくていいから、今は休んで。志保ちゃん呼んでくる」
小さく頷き、再び青は瞼の下へと消える。
目を覚ました事は、思った以上に快斗に安堵を与えた。きっと彼女にも同じものを与えてくれるだろう。
たん。
耳に触れた音に呼ばれ、意識が浮上する。
断続的に聞こえるそれは時計の音ではない。
うっすらと開けた瞳は見なれた天井を映す。
少し詰まり気味な呼吸に辟易しながら、ゆっくりと顔を向ける。気配に敏感な彼が起きない様、ゆっくりゆっくり。
サイドテーブルには御約束な洗面器とタオル。水差しとグラスと薬瓶。
そういえば発作を起こしたのだ。
此暫く無かったものだからうっかりしていた。
視線だけをつるりと流せば、ベッドの横の椅子に快斗が座っている。
また心配をかけてしまったのか。
たん。
再び響いた音に、そっと瞬きした。
何の音だろうと首を仰け反らせて窓を見る。
たん。
たん。
街灯によって窓に張りつけられた影が、小さな音と共に揺れている。
(雨垂れ……)
意識を失う前は晴れていたはずだ。ならば倒れてから天候が崩れたのか。
そういえば、明日は志保と博士を誘って庭でピクニック形式でランチをと話していた記憶がある。
この雨ではランチは御流れになっただろう。
いや、それ以前に新一自身が約束を守れなかった。
たん。
とく。
(…………)
雨垂れの音に、心臓の音が重なった。
(雨……水の流れから時間の概念が生まれ、時計が生み出された……)
だが、そんな物を発見・発明する前から、人は体内に時計を持っているのだ。
熱い血液を送り出すポンプ。それを動かす筋肉は一生の間に動く回数が決められていると、何かで読んだ記憶がある。
(…………俺の時計は、何時まで動いているんだろう……?)
緩慢なカウントダウンは続いている。
流され、一段一段翻弄されて沈んでは浮かぶ落ち葉の様に。
水底に沈むのか。
河原に流れつくのか。
何時その時が来ても、新一は後悔を残さない覚悟はある。未練を残しはしても。
だが、自分がいなくなることで、快斗や志保にどれほどの感情の波が押し寄せるのか。
それを思うと抱いた決意は容易にしぼんでしまう。
(他人よりも短くていい……せめて、こいつらに、苦しみを与えないようにしたい)
そんな願い事が叶うとは、新一だって思いはしないけれど。
(頼むよ………)
快斗から。
志保から。
この優しい人たちから、俺という存在を奪わないでください―――今は、まだ。
(たの、む…)
瞼が重い。
じっとりと体に圧し掛かる疲労が、新一を眠りの淵へと誘おうとしている。
眠りは小さな死だ。
他愛の無い思考。だが今は、そんな言葉すらも恐ろしい。
静かに呼気を漏らしながら、再び光の中で目覚める事が出来る様に。
慄く心のまま、新一は再び目を閉じた。