満月の日には犯罪が多い。
統計できちんと証明されている事だ。
…………でも、
だからって巻き込まれるのは却下だが。
走っていた。
とにかく走っていた。
ここのところ巷では、連続婦女暴行殺人事件が横行していた。
犯人は菅沼義人、28歳無職。
別れた女にストーカーじみた行為を繰り返した挙句襲って殺し、そのあと少々気が触れたらしい。特定された時点で捕まえられるはずが、獣のような本能で警察から逃げ回っており、半年以上かかっても捕まる事なく、犠牲者は増える一方だった。既に6人の女性が犠牲となっている。犠牲者は一様に1人目に酷似した女性で、年齢層は高校生から大学生。ショートカットの、少しボーイッシュな女性が多かった。
しかし狂ってはいても、否、狂っているからこそ正常に働く理性もあるのか、犯人は酷く周到に女性たちを襲っている。獲物を見つけるとスケジュールを調べ上げ、信じられないほど周到に犠牲者が1人になる場所を作り上げるのだ。
そこまでわかっても、警察は犯人を捕まえられない。
あちこちから非難があがったのはいうまでもない。
そして警察は頼れないと言った、被害者の親族が俺を尋ねてきたのは、宮野が帰った1時間後だった。
すぐさま目暮警部に連絡をとる。
親族から依頼があったのだと告げると、何とも複雑そうなため息が聞こえたが、直ぐに迎えをよこすと言われた。
警察ももうなりふりかまっていられないらしい。
上着と携帯、財布などを持って家のあちこちを点検していく。
猫たち用にリビングの窓を少し開いて、猫が入れる隙間くらいでロック。餌の皿にキャットフードとドッグフードをそれぞれおいて、俺が帰れなくても食べられるようにしておいた。多分今日は帰れないから、猫用ベッドのヒーターも弱くつけておく。
「じゃ、行くかな」
何時もより静かな自宅を出、俺は宮野の言葉を吹き飛ばすように頭を振った。
前方を男が走っている。そのシャツが茶色く斑に変色しているのが、満月の明かりでも容易に見えた。
ぎりぎりだった。
プロファイルや捜査資料を漁って俺が仮定したルートの1つに、菅沼がいた。
高木刑事とともにそこに赴いたちょうどその時、菅沼が1人の女性に襲いかかろうとしていたのだった。
背中を切りつけられた女性を助けようと飛び掛った高木刑事は、足を負傷してその場に留まらざるを得なかった。直ぐに応援を呼ぶからと叫ぶ高木刑事をあとに、俺だけが奴を追いつづけている。
「まて、菅沼!」
言われて正直に止まる奴もいないが、とりあえず定石としてそう叫ぶ。
しかし意外にもこの男、あっさりと足を止めた。そのままの姿勢で立ち尽くし、固まっている。
嫌な寒気が首筋にまとわりついているような、変な気分のまま、俺はゆっくりと男に近寄っていった。
緩い向かい風に乗って、なにやらぶつぶつと呟く声が聞こえる。
「……おい?」
躊躇いがちに声をかけ、肩にそっと触れてみる。危険ではあるが、彼の意識を現実の世界に戻さなければならないと思っていた事は確かだ。
肩に触れられた事で、意識を内から取り戻したらしい。ゆっくりと振り返った男は、虚ろに笑い、俺の目をまっすぐに見返してきた。
そして。
「…ああ……そこにいたのかぁ…」
予備動作もなく振り上げられたナイフをどうにか避け、間を空ける。
「悦子…すぐに綺麗にしてあげるからなぁ? 赤が好きなんだろ? 前みたいに、一杯一杯、飾ってやるからなぁ…」
「菅……」
呼びかけながら、頭の端で手遅れである事を、俺は悟っていた。
菅沼の目にはもう、俺の姿は………いや俺だけではない、誰の姿も映ってはいないのだ。
彼の前にあるのは過去だけ。
「悦子……!!」
「っ!!」
振り回された腕から逃れ、走り出す。
さっきとは反対に、俺は追われる側として走り出した。
(ちっくしょ〜!!!!)
思いつく限りの罵詈雑言を並べながら、調べ尽くした裏道を逃げまわる。それでも未だ表通りに着かないのは、悉く菅沼に邪魔をされている為だ。何故こんなにもと思うが、狂気に駈られた人間の本能の凄まじさなのだろうか。考える以上に、菅沼の追撃は凄まじいものだった。
だからといって、武器など持たぬ身では逃げる事しか出来ない。その気になればフォークでも小枝でも武器にはなるが、生憎新一にそれを活用する術は無い。殺しの仕方を知り実行した事のある人間と知っていても使った事の無い人間ではおのずと差も出るし、何より連続殺人者は殺す度に方法を学習する事は判明しているのだ。立ち止まり捕まったが最後、それは鮮やかな手腕で死体と成り果てるだろう。
(ってか、そんな事考える時間も勿体無いってのに!! 兎に角今は、表に……いや、今の菅沼から考えたらこのままの方がいいか…アイツには最早人の区別がつかなくなってる。そんな状況で人込みに出たらとんでもない事になる)
表通りに繋がる道に、菅沼らしき人影が見えた。それに背を向けて駆け出し、再び裏通りからビルの隙間を走りぬける。
(どうする、どうする!?)
足音は近くもないが遠くも無い。菅沼に捕まる事無く、しかし自分に狙いを定めておくように、離れすぎては行けない。だからといってこのままでは殺されるのは目に見えている。
「…………っ!?」
勢い良く曲がり角を曲がった瞬間、俺は現れた影に驚いて足を止めた。
1ブロック先に、路地を遮るように立つ男がいた。
こちらに背を向けて佇んでいる姿は菅沼の物ではない。しかしだからこそ、こちらに走る事が出来ないときびすを返す。このままこちらに向かえば彼が狙われかねないのだ。
「…新一?」
(えっ?)
突然呼ばれた自分の名に、思わず振りかえる。
男がこちらを見ていた。収まりが悪そうなふわふわのくせっ毛の下から、月明かりに反射した葡萄色の瞳がまじまじと自分に向けられている。
「やっぱ新一だ、どーしたのこんなとこで」
「へ? え?」
「あ、分からないか。まあいいや、何してるの?」
「え………い、今?」
「そお〜、……ん?」
はた、と男の目が俺の背後に向けられる。
そうだよ、こんなことしてる場合じゃないって!!
振りかえれば菅沼が立っていた―――が、その目が先ほどとは明らかに違う。鬼のような形相になり、俺ですら愕然とするほどの殺気を立ち上らせる。
「悦子…………その男か……?」
「!」
しまった!!
菅沼の最初の犠牲者・田上悦子は男性との交際が発覚して殺害された。
このシチュエーションは……まずい。まずいどころか、菅沼の中に過去の公式が当てはまってしまった時点で、俺だけじゃなく目前の男もまた対象になってしまったのだ。
「っ…来い!!」
「えっ?」
「悦子おおぉおぉ!!!」
男の手を掴んで走り出した俺の背後から、菅沼の絶叫が響く。
でもそんな事にかまっていられるか!!
満月は相変わらず、菅沼の狂気と闇を増幅させているように輝いていた。