運命とはかく扉を開く。
ベートーベンの言葉だ。
…………全く、
それが運命なら正に今扉が開いた訳だ。
走っていた。
さっきよりもかなり気合入れて走っていた。
何せ今は一般人が一緒だ。それが犯人に狙われているとなったら、これは保護される場所まで逃げるしかない。
なのに。
「ねーねー、新一今日事件なんだ?」
(こいつは…!!!)
何とも気軽に話し掛けてくれるこの緊迫感の無さをどうすればいいのか。
自分の名前を知っているのは、まあそれなりにメディアに顔を知られている(嬉しくない事実ではあるが)為だろうが…。
「あのなあっ!! 今お前は殺人犯のターゲットになってるんだよ!!!」
「何で?」
「〜〜〜〜っ、後で詳しく話すから、今は逃げるんだ!!」
「は〜い」
…………この男をどうにかしてくれ。
おまけにしきりに「新一と一緒においかけっこ〜vv」なんてスキップ交えて騒いでくれるもんだから、その度に俺は膝から抜ける力を入れなおさなくちゃならない。
「黙って走れ!!」
「え〜、折角のおいかけっこなのに?」
「お前なあ…殺されかねないんだぞ!?」
「俺が?」
「お前も、俺もだ!!」
「新一も…………?」
声が途絶えたと思ったら、隣を走っていた気配が後ろに消えた。
振りかえれば男が立ち止まっていて、じっと俺を見ている。
「おいっ!! 何してんだ、早く―――」
「そいつ新一も殺そうとしてるの?」
「そりゃ…切っ掛けはどうあれ、最初に狙われたのは俺だし、その俺と喋って」
「じゃあ逃げない」
「はぁっ!!?」
この男は何を言うんだか。
「殺されてぇのか、てめぇは!!」
「俺は殺されないよ」
「逃げなきゃ殺されるんだっつってんだろ!!」
駆け寄って手を掴もうとしたが、逆に手首を握られた。そのまま強く引き寄せられ―――――
びゅおっ。
項すれすれを、何かが通った。
振り返ろうとした体ごと元来た道に押し出され、男の背に庇われた。
男の肩の向こうに菅沼の顔が見えて、やっとそれに気付く。
菅沼の目は完全に正気を捨てていた。男の肩越しに俺を見据え、剥き出しの殺気をぶつけてくる。
「だいじょーぶ、新一には触らせないよ」
「ばっ、馬鹿、退け!!」
「退かない。新一を殺そうなんてふざけた奴、許す気もないしね」
おいおい、何だぁ?
てか、……案外こいつもやばい奴で、俺のこと担いでるとか?
「退けぇ!!!」
思わずぐるぐるしかけた俺を庇ったまま菅沼のナイフを避け、男は素早くきびすを返した。
先ほどとは逆に俺の手を引き、再び路地を走り出す。何が何だか分からないままに、俺は男と共に菅沼に背を向けた。
袋小路に出た。
男に任せて走っていたが、突然ドツボに嵌った気分だった。
俺達の目の前には、8mはある高い塀。辺りにはダンボールやら何やらと、足がかりには頼りないものしか無く、登る事は出来ない。
…………任せるんじゃなかった…。
「あちゃ〜、しまったぁ。つい癖で…」
「おい、どうするんだよ!! こんなところ登れないし、戻るにしても―――」
振り返ったら、ちょうど路地を塞いで菅沼が立ち止まった所だった。
男を壁に押すようにして睨みつけると、菅沼も足を止めた。
ひたすらに睨み合う。
背に庇った男だけは助けなければならない。殺させる事だけは許せない、菅沼の罪状をこれ以上悪化させない為にも、俺の心の為にも。
って人が考えてる時に、やっぱり後ろの馬鹿は言いやがった。
「新一、危ないから下がって」
「バーロォ!! 一般人に怪我させる訳には行かないんだよ!!」
「新一が怪我する方が駄目だってばっ!!」
前に出よう出ようとする馬鹿を必死に押さえ、菅沼を隙無く見つめながら、何とか踏みとどまる。
あんまり押されても今度は俺が危ない。それが分かったからか、男も俺を押しのけようとはしなくなったけれども。
何だって殺人犯の前でバタ臭いトレンディドラマばりの会話しなくちゃ駄目なんだか。しかも、男と。
………寒。
「……悦子………くそう、馬鹿にしやがって…」
「えつこ? 誰?」
やっと何か違うと気づいた(のかもしれない)後ろの男に、俺は苦いため息をついた。
そうだよ、俺たちは菅沼から誤解受けてるんだって!
こんな言い合い、完全に曲解されるに決まってる。
兎に角後ろの男を背中でぶつかるように押す。こうなったら絶対にこいつだけは守らなければ。俺は多少の怪我でへたばるようなやわな男じゃ無いんだから。切りかかられる時にタイミングを合わせて反転すれば、逃げられるかもしれない。
じりじりと歩み寄る菅沼から目を離さず、必死に打開策を考えている俺の左手が、背後から握られた。
思わず顔が背後に向いてしまう。頭半分ほど背の高い男は指を広げるように絡めて左手を持ち上げて、
「『力』を、あげる。ずっと新一にあげようと思ってたんだ」
「……え…」
「俺が新一の傍にずっといられるように…」
左手が男の手に覆われた感覚。はっと見れば、男の指に銀色の光が挟まれていた。
光はやがて一つの小さな指輪となった。細かい細工がされた、幅のある王冠型の指輪。中央に輝く明るい金褐色の、一条の白色の筋を持つ石……シャトヤンシーと呼ばれる効果を持つこれは、キャッツアイ?
それはゆっくりと、男によって俺の左手に―――左手の薬指に、通された。
菅沼の激昂した声が遠くに聞こえる。
そんな事よりも(命がかかっているのに、その時は本当にそう思った)今はただ、輝き出した石と、温もりだした指輪と………背後から俺を緩く抱き締めた男の、低く、甘い声が、俺の身体を包み込んでいた。
「定められし姿の月よ 定められし時にその姿を映せし瞳よ 汝等の御許 定められし世界の夜の下 我等が覇王の証を次代に与えん」
耳元で囁くように聞こえる声。
人の声である筈のそれには、何処か転がすような唸りも加わっているような錯覚を覚えた。
左手の指先からほんのりとした光が宿り、ぬるま湯に浸ったような温もりが俺を包んでいく。
包まれるに連れて、心地良さにそれまでの張り詰めたものが抜けて、静かに目を閉じた。
「唱和せよ 『定めし時定めし月の元 我らが瞳を輝かせし者 常に我等の王となる』」
『定めし時定めし月の元 我らが瞳を輝かせし者 常に我等の王となる』
「唱和せよ 『我等我が身我が御魂 王たる者の剣であり盾となりて在らん』」
『我等我が身我が御魂 王たる者の剣であり盾となりて在らん』
男の声について、別の誰かの声が聞こえる。それは複数というには余りに数多い声だが、騒がしいものではなかった。
緊迫していた筈なのに―――何故か全ての時が止まって感じる。
「唱和せよ 『我等月と瞳の光の元 今ここに我等が王を認めん』」
『我等月と瞳の光の元 今ここに我等が王を認めん』
温もりが熱を上げてゆく。
苦しいほどに熱くなる一歩手前――その熱は一気に左手に集まった。
そのまま吊り上げられるような感覚と風を伴って、熱が放出されるのを感じた。
徐々に静寂と、左手に残された金属の感触が戻ってくる。
「今ここに新たなる王が誕生した。定められし月と瞳の元に、その証たる儀は終えり」
『我等月と瞳と御魂の元に、その証たる儀を見届けた』
「我等は王と共に在る、王は我等と共に在る。我等は剣、我等は盾、我等月の元誓約せん」
『誓約せん』
「――――ならば我等が王に手を掛けんとする不埒者、其が爪其が牙を持って沈黙させよ!!」
突如、辺りに猫の声が響き渡った。それも一匹じゃない、数十匹はいそうな、殺気だった声だった。
ぎょっとして目を開ければ。
「な、に―――」
路地だけじゃない。高い塀に、背の低いビルの屋上縁に、窓枠の細い場所に、猫が鈴なりになって。
その猫のどれもが俺や後ろの男には目もくれず、菅沼だけを見据えて牙を剥いていた。
ホラー映画もかくやというような状況で、流石に菅沼の顔色も変わる。
だが。
呆然とする俺達を差し置いて、猫たちが一斉に菅沼に飛びかかった。