キミと僕と二匹の猫






 劇的な一晩の末に。
 俺の人生は微妙ながらに変わった。
 …………果たして、

 これが微妙かと言われれば、疑問でしかないんだが。





「いやあ、災難だったね」

 相変わらずの太鼓腹を揺らしながら、目暮警部は毛布に包まれた俺の肩を叩いた。
 それに曖昧に笑みを返すが、流石に引きつった笑みになってしまうのは仕方ない。

「逮捕できて良かった!! このままでは、遺族にも亡くなった被害者にも顔向け出来ないままだったからな…」
「そうですね…」
「死んだ者は戻らないが、せめてもの餞になるよ。ありがとう、工藤君」
「いえ、俺は警部たちが揃えた資料や証拠を見て考えたとおりに動いただけですからね。警部や刑事さんたちのお手柄ですよ」

 にっこりと笑って見せれば、警部も満更ではない様子になる。
 実際、菅沼を捕まえたのが俺ではない事は、俺が保証することだからだ。
 だがまあ、それ以前に確認しておかないと。
 そう――逃亡途中で忘れきってしまっていたが、高木刑事と、被害者の女性の事を。

「そういえば、被害者と高木刑事はどうです?」
「ああ、同行した刑事からは大丈夫だと連絡が来ておるよ。被害者の方も高木に励まされ続けていたので随分と心強かったと言っていたそうだ」
「そうですか。良かった、置き去りにしてしまったので、心配していたんです」
「わしがあいつの所に行った時には、寧ろ君の方を心配しておったよ。しきりに早く応援をと叫んで、落ち着かせるのに苦労した」

 笑う姿からも、高木刑事の怪我は深刻ではないと分かって、とりあえず一心地着く。
 だが、すぐ隣からかけられた警官の言葉に、内心が一気に凍りついた。

「しかし、本当に何があったんですか?」
「え」
「搬送される時に見たけど、顔とか酷い傷だらけだったし…工藤君が発見したんだよね?」
「え、ええ」

 突っ込まないで欲しかった…せめて事情聴取までに確保の手段をでっち上げて置きたかったんだけども。真っ正直に説明したところで誰も信用しない事を、果たしてどう説明してよいものか。
 ここは、早々に退出するしかねぇ!!  俺は毛布をぐっと握り締め、わざとらしくも大きなくしゃみをした。
 案の定、警部は大慌てで口を挟みだした。

「おお、済まんね!! 事情聴取はまた後日にして、今日はもう送ろう。いや、病院の方がいいか?」
「いえ大丈夫ですよ、タクシーでも捕まえて帰ります」
「いやいやいかんよ! 千葉君、送ってあげてくれ」

 取り合えず、手段捏造(言葉は悪いが、本当の事を話したら間違い無しに病院に連れて行かれる)の時間は出来た。警部の声に反応した千葉刑事が走ってくる。功労者への大歓迎モードは簡単に消える事はないし、今は本当に疲れていたので、結局頼る事にしてしまった。
 余程疲労が顔に出ていたのか、千葉刑事も労いの言葉以外は黙って運転してくれた為に、俺も身体を休める事が出来た。

(………なのに、だよ)

 ゆったり目を閉じて安らぎに身を任せようとしても、瞼に映るのは月の光と――――。







 一斉に踊りかかった猫に覆われ、菅沼の身体は一瞬で見えなくなった。
 聞き苦しい絶叫は猫の声に消されて、あとは様々な猫の模様が月の光に照らされて浮かんでは消える。
 まるで現代版ヒッチコックの様なそれに、流石の俺も焦る以外に無かった。
 猫は巷では愛玩動物として扱われているが、その爪や牙は侮れないほどに鋭いものだ。しっかりと突き立てられれば、人の肌など簡単に穴があくし、それを引き摺られれば酷い怪我となる。野良の獣の狩猟本能は強い、首や柔らかい腹など狙われれば生死に関わるだろう。
 何よりもこれほどの猫に襲われるなんて、幾ら狂気に憑かれているいえど相当の精神的な傷を負いかねない。

「すっ、菅沼っ!!」
「危ないから寄っちゃ駄目だよ、新一」

 駆け寄ろうとした俺の腕を引きとめてそのまま抱きこみ、男はお気軽な口調で言いやがった。

「バーロォ!! 幾ら猫が相手だからって、死なないなんて事ねぇんだぞ!?」
「殺しはしないって。ちょっと脅かしておくだけさ」
「――」

 振り返って叫んでも、腕は外れない。
 男は俺の身体をあっさりと押さえ込んで、飄々とした顔で猫たちの狂宴を見つめている。その瞳が光に反射して淡く光って見えるのは気のせいか、ぞっとするほど酷薄な――先程自分を見つめていた無邪気な笑みとは違う――肉食獣のような笑みを口元に刷いている。
 それでも男を睨み上げ、胸倉を掴み上げた。

「今すぐやめさせろ!! あれじゃあ死にかねない、ショック死って事だってありえるんだっ!!」

 俺の剣幕に困った顔になって、男はそれでも俺を離そうとしない。

「俺じゃ止められないよ?」
「何でだよ、お前が命令したんだろ!?」

 命じたのは明らかにこの男だったはずだ。猫の習性から考えれば信じがたい事だが、猫は男の言葉どおり菅沼に攻撃をしているのだ。
 ならば止められるのはこの男だけのはずなのに、彼は軽く肩を竦めただけであっさり「出来ない」と言い切った。

「確かに切欠を言い出したのは俺だけど、後は自己判断で攻撃してる」

 何だとぉ!?
 じゃあどうやって止めればいいんだよ!!
 このまま放置すれば、確実に生命の危機になる。
 ここで俺があの群れに飛び込んでも、きっと止まる事は無い。興奮する猫の集団なんて、どう宥めればいいんだ!?
 腰を拘束している男の手を、思わず握る。
 どうしようもない自分が悔しくて堪らなかった。
 例え死ぬことは無くても、菅沼は完全に狂気に飲み込まれてしまうだろう。

「…新一、あいつの事助けたいの?」
「たりめーだ!!」
「殺されかけたのに?」
「あいつは罪を償わなくちゃいけない、ここで死なせる訳にはいかないんだ!!」

 だけど手を差し伸べたところで何が出来るっていうんだ!?
 歯を食いしばり、目の前で群がる猫を見ている事しか出来ない俺に、何が?

 そんな俺の目に、猫とは違う何かが映った。


 猫に裂かれ、血を流して力無く揺れる、人の手。


 ぞっとした。
 それは良く見る死体のそれに似ていて、違うのは猫の波によって揺れ、今尚蹂躙されているという事。
 俺の中で行き場を失っていた声が、迸った。



「やめろおおぉぉっ!!!」



 その途端。

 猫は全ての動きを止め、返り血に濡れた毛皮もそのままに俺を見た。
 菅沼から離れ、姿勢を下げながらゆっくりと道を開けるようにあとずさる。

 俺の、言葉に反応した?

 だがそんな事はどうでもいい。
 俺は慌てて菅沼の元に走った。首筋と鼻の下に手を当てて呼吸と脈を確かめ、あちこちに滲む血を拭ってその傷の深さを確かめる。
 気を失っているだけだが、出血は少ないものの傷の多さが気に掛かる。
 どちらにせよ深刻ではないにせよ、放置するべき状態でないのは確かだ。

「早く病院に………」

 何故か猫は襲い掛かって来ない。ならば今の内に連れて逃げるしかないだろう。
 とはいえ、猫が十重二十重と囲んでいるこの場所から、どうやって移動すればいいのか。
 様子を見ようと顔を上げ、だが俺は唖然となった。

 あれほどいた猫が殆どいない。
 数匹が男の足元で寛いで汚れた毛を舐めている、それだけだ。

「あ、あれ?」
「どしたの?」
「猫が……」
「ああ、みんな帰っていったよ。そいつ大人しくなったし、新一に怒られたから」
「俺が、怒った、から?」
「そう。それより、どうかしたの?」

 飄々と答えた男が猫を引き連れて近づいてくる。
 あまりにのんびりしたその風景に、先程までの騒ぎは何なんだか。
 緊張が抜けたせいか、俺はその場にへたり込んでしまった。膝の上に子猫が乗ってきてほお擦りされ、ここが裏路地じゃなければ実にほのぼのした情景だと、どこか抜けた思考で思う。

「は、運ばないと……手当しなくちゃいけないし、警部たちだって俺たちの事探してるだろうから――」
「そお。じゃ、どいて」

 菅沼と俺の傍でうろうろしている猫たちに声をかけ、男は軽々と菅沼を抱え上げた。肩に担ぐと、「立てる?」と俺にも手を差し出す。
 多少ふら付きながらも立ち上がって、俺は男を見上げた。
 にっこりと満面の笑みで、男は掴んだままの俺の手を引っ張った。







 結局そのまま、俺と菅沼は公園に放置された。
 男はしきりに俺を連れて帰ろうとしていたが、そんな訳にもいかないのだと言い続けたら、不満げではあったが解放された。

 あいつが何者なのか、とか。
 一体どこへ帰るのか、とか。

 そんな事は全く分からないまま、男は闇の中へ消えて行った。

「工藤君、着いたよ」

 千葉刑事の声に、俺はゆっくりと目を開けて車を降りた。
 翌日に改めて病院での検査と事情聴取があると聞かされ、礼を言って別れる。

 今ごろは遺族にも連絡が入っている頃だろうか。
 神様がいるかどうかなんて俺は知らないけど、遺族にとって少しでも心が休まる夜になるといいな、なんて思ってしまう程度には、センチメンタルになる月夜だった。

 だが。


 まだ、全ては終わっていなかったのだ。